「なるほど。で、どうやってここを知った?」
 寝起きの気怠さからひとつ芯が通った顔をして、男は尋ねた。くっきりした二重の大きな目が、ネコ科の動物を思わせる。赤い唇が、面白そうにつりあがっていた。
「会社の上司から、昔この辺りの旅館に泊まったという話を聞いた」
 酔うと昔の武勇伝を語りたがる上司は多い。しばらくホテル住まいになると決まったとき、適当に聞き流していた話の一端を、ふと思い出したのだ。
「営業でこの辺りをまわっていたらしくて、詳しい場所を話していたので覚えていた。瓦塀の、二階建ての大きな屋敷という特徴も聞いていたしな。少々古くても、俺は仕事ができて、眠れる場所があればそれでいい。前払いか?」
「せっかちだな。看板も屋号も出してない屋敷に入り込んでおいて、間違ってたらどうするんだ」
 男は呆れた様子で頭に手をやった。柔らかそうな髪の毛が、無造作に掻きまわされる。
「残念だけど、うちが旅館をやってたのはもう十年以上も前だ。今はここに俺一人で住んでる。しかも旅館といっても、表向きは一見いちげんさんお断りの料亭だ。上司の話をよく聞いておけばよかったな」
 その言葉に、黒田は思いのほか動揺した。
「もう、営業していない、のか?」
 正直ここを頼りにしてきたので、他に宿の心当たりはない。もちろん数駅離れればホテルなどいくらでも見つかるが、自宅のあったこの近辺を、まだ離れたくはなかった。
「そういうことだな」
 男が肩をすくめるのを見て、黒田は気が抜けるように息を吐いた。確かに屋号も電話番号もわからず、事前に確認もできないまま来たのは迂闊だったかもしれない。いつもなら冷静に判断できたはずのことだが、なぜだか今日はここに泊まれるものだと思い込んでいた。
…見たところ旅行者って感じじゃなさそうだけど、何か理由わけあり?」
 黙り込んだ黒田を見て、男が尋ねた。
…実は」
 ままならない状況に、黒田は自身でも困惑して口にする。
「もう、帰る家がないんだ」
「帰る家がない?」
 男は怪訝そうに腕を組んだ。
「そりゃあれか? その年齢としで勘当でもされたのか?」
「いや、そうじゃない。実家には帰ろうと思えばいつでも帰れるが、飛行機の距離だ。通勤を考えたら選択肢にはない。昨日までは、この近くのマンションで一人暮らしをしていたんだが…」
 その続きを、黒田は曖昧に濁した。
 物事を考えるときは理論的に、行動に移すときは合理的に。そんな自分の性格をわかっていたし、いつでもそうあるものだと思っていた。だからこそなぜあの時、引っ越し先も決まっていないのに家を引き払おうと決めてしまったのか、自分でもよくわからなかった。さらに言えば、そうなるに至った経緯こそ、冷静さとは程遠い、衝動的な行動以外の何物でもない気がする。コントロールの利かない、いつもの自分とは乖離かいりしたような感情。その得体のしれない情緒の名前を、黒田はまだ見つけられずにいる。
…別に、家賃の滞納とかで追い出されたわけではないんだ。金ならある。次の家が見つかるまでの数日、いや二、三日でいい、寝泊まりできる場所を確保できればと―」
 言い訳のように口にして、黒田は言葉を切った。何をどう伝えても、弁解しているようにしか聞こえないだろうなと冷静に思う。この状況が一番腑に落ちていないのは、自分なのだから。
…なんだかよくわからんが、二、三日でいいんだな?」
 自己嫌悪に陥る黒田をよそに、男は小首を傾げて問う。
「客としての扱いはできないが、それでもいいか?」
 顔をあげた黒田の視線の先で、男は欠伸あくびをひとつかみ殺した。