第一話 アネモネ【後編】
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前回のあらすじ
店主・春永の厚意で新居が決まるまで元料亭兼宿の『常春』に住むことになった黒田。思い出されるのは、行きずりの関係から自分の家に転がり込んできた一人の男のこと。彼は、自分にとってなんだったのだろうか――。
二、(承前)
伊崎を追い出して、一日が過ぎ、二日が過ぎた。
「カレーがもうなくなっちゃって」
「もう来るなと言っただろう」
「いい匂いですね、今日おでんですか? あ、タッパー持ってきました」
「……」
結局おでんも二人で食べた。家に持ち帰らせて冷えたものを食べても、うまくないだろうと思ったからだ。別にそんなことを予感して、材料を買い込んだわけではない。
「じゃあ俺お礼に洗い物しますよ」
「いいから帰れ」
「風呂掃除とか」
「帰れ」
「じゃあ体で払います」
明日の天気を話すような軽さで口にした伊崎が、ソファに座る黒田の肩に手をかけた。
不意にのしかかった体の重さに、心臓が鳴る。
首筋に押し付けられる柔らかな唇。
そのまま伊崎の手がベルトにかかるところまでをやけに間延びして感じて、我に返った黒田は力任せに彼を押しのけた。
「やめろ」
勢いで床に尻もちをついた伊崎は、呆気にとられるようにして黒田を見上げる。
「この際はっきり言っておくが、俺は男と寝る趣味はない」
黒田は立ち上がり、妙な気恥ずかしさをかき消すように声にする。
「お前は慣れているかもしれんが、一緒にするな。お前とは違うんだ!」
そう叫んだ声は、狼狽を示すように少し上ずった。
驚きのまま目を見開き、黒田を見つめ返していた伊崎が、やがて片手で顔を覆い、肩を震わせて笑った。
「黒田さん、ホテルでも同じようなこと言ってましたよ」
「……覚えてない」
「でしょうね。すごく酔ってましたし、すぐに寝てましたから」
「……本当に何もしてないんだろうな?」
「寝込みを襲うほど野暮じゃないですよ」
伊崎はそんなことを言って、子どもっぽく笑った。
それから伊崎が黒田の家に居つくようになるのに、時間はかからなかった。
給料日が来たら帰ると言うので置いてやったが、何日たってもただいまと言って黒田の自宅に帰ってくる。持ち帰った仕事を片付ける黒田の後ろで雑誌を読んでいたり、テレビを見ていたりする。ひとつしかないベッドが奪い合いになって、黒田が勝ち取っても、朝目を覚ますとちゃっかり隣で伊崎が寝ていることも珍しくなかった。
「お前、家主でもないのに、ベッドで寝ようなんて図々しいんじゃないか?」
「だって俺、ソファで寝ると腰痛くなるんですよ」
「だからって勝手に添い寝するな。俺は男と寝る趣味はないと言っただろ」
「じゃあ黒田さんがソファで寝てください」
「なんでそうなるんだ」
そんな言い争いをしながら、二人で朝食を食べることもあった。
料理はもっぱら黒田が作ったが、洗濯はできると言うので任せるようになった。伊崎は黒田のネクタイの趣味が悪いと苦言を呈し、黒田も常にサイズの大きな服を着る、伊崎のセンスを批判した。二人で深夜のサッカーの試合を観て騒ぎすぎ、隣室から苦情を受けた。伊崎が買ってきたスナック菓子を黒田が勝手に食べて、猛抗議されたこともあった。トイレ掃除に関して話し合って、二人とも座って用を足すことに決めた。
雨の日は、ネットでシリーズのアニメを観ながら、作画について好き勝手批評した。
晴れの日は、飛んで行った洗濯物を二人で探しに行った。
寒い日は買い出しに行くジャンケンをして、暑い日はやっぱりジャンケンをしてから、結局二人でアイスを買いに行った。