第二話 蓮華【中編】

いつか春永に

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前回のあらすじ

小学三年生という年の割に大人びた少年・小野田颯太。彼の母はすでに亡く、母の新しい夫と弟という血のつながらない家族が残された。ある日、交流があるとは言いがたい母方の祖父母から養子の申し出を受けるのだが。

イラスト tacocashi
イラスト tacocashi

   ◆

 祖父母との気詰まりな食事を終えた帰り道、にわかに陽が陰り、冷たい風が吹き始めたかと思うと、重く垂れこめた雲から雫が零れ始めた。ぼんやり歩いていた颯太は、脳天に降ってきた水滴にようやく気付き、いつの間にか灰色一色に覆われてしまった空を仰いだ。
「雨降るって言ってたっけ?」
 出がけに見てきた天気予報には、曇りと出ていたはずだ。秀史が干したであろう洗濯物が気になって、颯太は足を速める。しかし間もなく雨は、アスファルトの上で白く煙るほどの勢いになり、颯太はやむなく、近くにあった他所の家の門屋根の下へ避難した。切妻屋根のひさしは短いが、ないよりはましだ。門口の格子戸の奥には、石畳の向こうに古めかしい大きな屋敷が、陰鬱な雨間に沈んでいた。
…痛いな」
 無意識にぼやいて、颯太は自身の右足首に視線を落とす。大げさに思われたくなくて、こっそり湿布を外して家を出てきたが、歩いているうちにじんわりとした鈍痛を感じるようになっていた。濡れた靴を脱ぎ、靴下を下げて確かめると、腫れがぶり返しているのがわかった。ひとつ息をついて靴を履き直そうとしたが、痛さに負けて爪先だけを突っ込んだ。
 雨音だけが騒ぎ立てる中で、颯太は痛みをこらえるように奥歯を強く噛む。先ほどの祖父母の一件と、足の痛み、それに冷たい冬の雨が、少しずつ心の中で染みのように広がっていく。
「お、なんだ雨宿りか?」
 不意に近くで声がして、颯太は弾かれたように顔を上げた。
 目の前で、紺色の傘をさしてコンビニの袋をぶら下げた男が、興味深そうにこちらを見下ろしていた。秀史と同年代か、もしかするともう少し上かもしれない。無遠慮に彼の顔を見つめ返していた颯太は、彼がここの家人であるかもしれないことに気付き、慌てて片足で跳ねて、壁際に避けた。
「ごめんなさい、急に降ってきて…」
「いいっていいって。それよりそこじゃ濡れるだろ。中に入んな」
 快活に言って、彼は格子戸を引き開け颯太を手招きする。
「ああ、でもあれか、知らない人について行くのはダメか」
 ふと思い直したように立ち止まって、彼は困ったように颯太を見つめた。その顔が、昨晩のオムライスを失敗した秀史の顔と重なって、颯太は少しだけ口元を緩める。悪い人ではなさそうだと、直感が告げていた。
「じゃあ玄関までにするか。ちょっと寒いけどな。戸は開けっ放しにしとくから、嫌になりゃ出て行けばいい。それに―」
 紺色の傘で雨の矢をはじき返しながら、彼は颯太の足元に目をやった。
「その足も、どうにかした方が良さそうだしな」
 右足をかばうように立っていた颯太は、しばし逡巡したのちに、彼の後に続いて門口をくぐった。
 その家の玄関は、颯太が想像していたよりもずっと広く、敷き詰められた黒御影石といい、飾られている骨董といい、どこぞの老舗のようなたたずまいだった。上がり框には大きな一枚板が使われていて、颯太が恐る恐るそこへ腰かけている間に、彼は無造作に畳んだ傘を靴箱脇に引っかける。
「足、どうしたんだ? 捻ったか?」
「そう、昨日体育の授業で。捻挫だって」
「捻挫か。湿布は?」
「忘れた」
 けろりと答える颯太に、彼は呆れたような目を向けて、ちょっと待ってろよと言い残し家の奥へ消えた。そしてしばらくして、清潔なタオルと一緒に、飴色になった木箱を抱えて戻ってくる。
「湿布なんかいつ使ったかわからんなぁ。あるにはあったが、これ使えんのか?」
 虫刺されの薬だの、絆創膏だのが一緒くたに放り込まれた木箱の中から、彼は冷感湿布と書かれた未開封のパックを引っ張り出した。
「使用期限は…七カ月過ぎてるな」
 どうする? と神妙に問われて、颯太は思わず噴き出した。
「口に入れるもんじゃないし、いけると思う」
「お、いいねぇ、その判断嫌いじゃないぜ」
 彼はにやりと笑って、湿布のパックを開封した。しかしその手つきは不器用そのもので、少し大きいからと半分に切った断面は、ノコ刃のような刻み目を描き、透明なフィルムを剥がす際には自分の指にくっつけ、紙テープで固定する際には、二人でああでもないこうでもないと言いながら、実に独創的な紙テープアートの完成となった。
「よし、これで帰るまでは持つだろ」
 満足そうに言って、彼は開け放たれた引き戸の向こうに見える雨の世界をうかがう。雨脚は、まだ弱まる気配はない。おまけにみぞれまじりになってきて、気温も少し下がった気がした。
「まあ、茶でも飲んでゆっくりして行けよ。今淹れて来るから―」
 と、言い終わらないうちに、彼が派手にくしゃみをした。
「てか、ここ寒いな! 戸を開けてるし当たり前か! 待ってろ、今ストーブを―」
 はなをすすりながら立ち上がろうとした彼が、足元の木箱を蹴飛ばし、中身が廊下に散乱する。慌ててそれを拾い集めながら、彼がふと思いついたように颯太に目を向けた。
「そうだ、いっそここにこたつ運ぶか?」
 廊下の途中でストーブを転がして灯油をぶちまけるか、こたつのコードに足を取られて転ぶ彼の姿しか想像できなかった颯太は、複雑な顔で彼を見やる。
「遠慮しとくよ…。でもお礼はしたいから、俺がお茶淹れていい?」
 尋ねると、彼は一瞬驚いた顔をした後で、じゃあ頼めるか? と破顔した。

 颯太を招き入れた彼は、春永はるながだと名乗った。それが苗字なのか下の名前なのかはよくわからない。この家は昔、宿兼料亭を営んでいた建物で、屋号を『常春とこはる』というらしい。そのため部屋数が多いのだが、光熱費の節約のため、自分が使っている部屋以外に暖房は一切ないのだという。
「暖房どころか冷房もないぜ。でも夏の方がまだましか。高台にあるおかげで風は通るんだ」
 案内されたキッチンは、一般家庭のそれとは比べ物にならない広さだった。キッチンというより、厨房と言った方が相応しいだろう。いくつかの設備は撤去されたらしく、部屋の中には妙に不自然な空間もある。そこにポツンと、ファンヒーターが置かれていた。
「朝は地獄だぜ。寒くて動けねぇ」
 春永はファンヒーターを起動させ、ついでに鈍い金色の大きな薬缶を手に取った。側面のへこみ具合や傷のつき方を見るに、料亭時代から使っているものなのかもしれない。
「何か茶菓子でもあればいいんだけどなぁ。生憎あいにく、佐々木さんの奥さんにいただいたロールケーキは、昨日全部食っちまった」
 温風を吐き出し始めたファンヒーターで、かじかんだ手を温めていた颯太は、改めて厨房の中をぐるりと見渡した。白い冷蔵庫の隣、電子レンジの載っている棚のところに、ふりかけだの乾燥わかめだのが乱雑に詰め込まれている籠がある。自炊をしない、というわけではなさそうだ。
「あれは?」
 籠の中からはみ出していたオレンジ色の袋を指して、颯太は問いかける。
「どれ? …ああ、ホットケーキミックス! いつ買ったんだ…?」
 袋を手に取った春永が、遠い目で記憶を辿る。
「牛乳と卵があるなら、俺作るよ」
 颯太の申し出に春永は目をみはり、次に申し訳なさそうに袋の裏面を見せた。
「残念だが少年、これも賞味期限が一カ月過ぎててな…」
「粉だし、一カ月なら大丈夫だ。焼けばどうにかなる」
「なんだその自信と頼もしさは…」
 春永が棚の中からボウルを探し出している間に、颯太は断って冷蔵庫から牛乳と卵を取り出した。こちらはまだ、賞味期限には余裕がある。冷蔵庫の中身は、他にミネラルウォーターと炭酸飲料、それにマーガリンくらいしか入っていなかった。
「そういえば少年、君の名前を聞いてもいいかい?」
 危なげない手つきで卵を割る颯太に、春永が尋ねた。
「颯太。小野田颯太」
 ホットケーキ作りは慣れている。母とも一緒に作ったし、今でも休日のおやつに、よく秀史と作るのだ。おかげで計量カップがなくても、生地の固さで牛乳の適量を判断できる。
「そうか、颯太か。それにしても随分手際がいいな。お母さんに習ったのか?」
 何気ない春永の問いに、颯太はすぐには答えず牛乳を注いだ。答えたくなかったのではなくて、どう答えたらいいのかわからなかったからだ。
…たぶん…そうだったと思う」
 母から手取り足取り教えられたわけではない。ほとんど見よう見まねで覚えたと言った方が、きっと正しい。
「あやこは料理が得意じゃなかったけど、ホットケーキを焼くのは上手かったんだ」
「あやこ…っていうのは、お母さんか?」
「うん。火を通し過ぎて、ちょっと焦がすこともあったけどな。でも、火が通ってればだいたいどうにかなるんだって」
「なるほど」
 過去形で答える颯太に、春永は何か察したようにして、それ以上尋ねてはこなかった。
「作るの、二人分でいいの?」
 生地を混ぜながら、颯太は隣に立つ春永の顔を見上げる。
「まさか颯太には、俺には見えない三人目が見えるのか…?」
「そうじゃない。春永の家族の分はいらないのかって」
「ああ、そういうことか」
 春永は笑って口にする。
「この家には俺一人だ。他には誰もいないから、遠慮せずでっかいのを焼いてくれ」
「一人なのか? この広い家に?」
 颯太が母と暮らしたアパートは、居間とキッチンしかなく、本来は一人暮らし用の部屋なのだと聞いたことがある。そして今住んでいるマンションも、居間の他に寝室があるだけで、そこに三人が暮らしている。
「ああ。ここはもともと住居用じゃないしな。俺の父親から、母親がもらった不動産…といってもわからんか。まあ要は、母親が持ってた土地と建物を、俺が引き継いだって感じだ」
 春永は、言葉を選ぶように口にした。
「父親と兄は存命だが、今は別々に暮らしてる」
 颯太がかき混ぜる生地の出来具合を見ながら、春永はフライパンを用意した。ホットプレートなどという洒落たものは、この家にはないのだという。
…似てるけどちょっと違うな」
 ボウルを抱えるように持って、颯太はぽつりと口にする。
「俺は春永とは逆に、秀史と、弟と一緒に暮らしてる。でも、二人とは苗字が違うんだ。ヨウシエングミっていうのを、しなかったから」
 それを聞いて、春永が興味深そうに片眉を撥ね上げた。
「奇遇だな。俺も父親と兄とは苗字が違う」
「え、ほんと?」
「ああ。そもそも俺の母親と父親は、結婚すらしてない」
 温めたフライパンに油を引きながら、春永はあっけらかんと話した。
「複雑な家庭だ、なんて世間には言われたりもするが、当人たちにとっちゃそれが普通なんだがなぁ?」
 同意を求めるように言われて、颯太は寒さの強張りがようやく溶けるように、緩く微笑んだ。
「うん、そうだよね。だから俺は別に、今のままでいいんだ」
 流し込んだ生地が、フライパンの上で円を描く。
 雨はまだ降り続いているが、ホットケーキの焼き上がりを待つ颯太の耳に、もはや雨音は意味をなさなかった。