第二話 蓮華【前編】

いつか春永に

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イラスト tacocashi
イラスト tacocashi

   一、

 今にも雪が降り出しそうな曇天の空を見上げて、颯太そうたは去年訪れたあの蓮華れんげ畑のことを思い出していた。
 休耕田なのか、それとも地主の単なる遊び心なのか、川沿いにある、教室ほどの広さの土地に密集して花を咲かせていた。颯太の小指の爪と同じくらい小さな花弁は、白から躑躅つつじのような鮮やかなピンク色を経て、先端はすみれのような紫に染まる。はすの花に似ているから蓮華っていうんだよ、と母は教えてくれたが、颯太はそもそも蓮の花を見たことがなかった。母のスマートホンで調べた画像を見せてもらうと、確かに似た形の花が、優しい色合いの花弁を天に向かってそっと開いていた。
 あの花は確か、春に咲くんだっけ。
 春っていうのはいつ頃来るんだろう。
 颯太はかじかむ手に、はあっと息を吹きかける。一瞬だけ生暖かい湿気を帯びた手は、すぐに冷気にさらされて冷たくなった。
「颯太くん、お母さん少し遅れてるみたいだから、教室で待ってようよ」
 帰り支度を整えて、下駄箱の前で待機していた颯太に、若い担任の保育士が声をかけた。先ほどまで一緒にいた園児たちは、迎えに来た保護者と共に次々と帰路に就いている。颯太は手を振ってそれを見送った。
「だいじょうぶ」
 颯太は、保育士の顔を見上げて答える。
「あやこは来るから、だいじょうぶだよ」
 そうだ、絢子あやこは来る。
 絢子は決して自分を置いて行ったりしない。
 それがわかっているからこそ、待つことには慣れていた。
「颯太くん、お母さんのこと名前で呼ぶよね。お母さんって呼ばないの?」
 保育士が、やや興味を引かれたようにして、颯太の隣にしゃがみ込む。
「あやこは、あやこだもん」
 颯太は当然のように答える。いつから母のことをこう呼んでいるのかはもう思い出せないが、おそらく周りの大人たちが呼ぶのを真似したのが始まりだったと思う。本人が咎めることもないので、そのまま名前で呼び続けている。お母さんと呼ぼうが、絢子と呼ぼうが、颯太に向けられる母の優しい眼差しは変わらない。
「ごめーん、颯太! お待たせ!」
 何か言いかけた保育士の言葉を遮るようにして、絢子が昇降口に小走りで現れた。若く色白で、メイクもファッションも抜かりなく、髪の毛も毎日しっかり巻くことを信条としている彼女は、普段から子持ちに見られることは少ない。息子がいると言われて驚いている大人たちを、颯太自身何度も目にしていた。
「ついスーパーで夢中になっちゃった」
 悪びれずに言う彼女の片手には、食材で膨らんだエコバッグがある。
「また無駄遣いしたの?」
「無駄遣いじゃないわよ。正当な出費ですぅ」
「牛乳買った?」
「買ったよ」
「お菓子は?」
「さあそれはどうかな?」
 颯太はいつもと同じように、絢子が差し出したその手を握る。
「あったかい」
「そうでしょ? 温めておいたもの」
 得意そうに笑って、絢子は直前まではめていた手袋を自慢げに見せた。
 見送ってくれた保育士に手を振って、鈍色にびいろの雲から雪が零れ始める中、母子は自宅へと歩き始めた。

 絢子は、料理があまり得意ではない。おまけに食材の管理も下手で、これまでにダメにしたものは、肉魚野菜を問わず数多くある。栽培していたのかと思うほど、芽が長く伸びたジャガイモを、キッチンの片隅で颯太が発見することもあった。
 そんな母の性格をわかっているので、いつからか颯太は野菜のしなび具合を観察し、数字を覚えて賞味期限を自分で確認するようになった。ただし賞味期限なのか消費期限なのか製造年月日なのかが颯太には判別できないので、とりあえずこの食材はまだ大丈夫なのかと母に声をかけるようにしている。大丈夫よ~と言う母が目を逸らした時は、大丈夫ではない時だ。
「あやこ、またやったな」
 その日の夕食に、生姜焼きと焼き鮭とお歳暮の見切り品だったハムが、それぞれこんがり焼かれて食卓に並んだのを見て、二人分の茶碗を用意していた颯太は母に胡乱うろんな目を向けた。
「大丈夫よ、ちゃんと火を通したから。火を通せばだいたいどうにかなるの」
「ほんとに?」
「ほんとに。セーフよ、ぎりぎりセーフ。それにお肉もお魚も食べられてラッキーでしょ」
 颯太から受け取った茶碗に、麦を混ぜてかさ増ししたごはんをよそって、絢子は笑う。
「おなかがいっぱいになっちゃうよ」
「いいじゃない。いっぱい食べなさい。ただし野菜もね」
「お菓子は?」
「お菓子は適量」
 颯太は買ってきたポテトサラダを器に移して、自分と母のコップを用意し、麦茶を注いだ。去年までは重いなと思っていた麦茶のポットも、ようやくうまく持てるようになった。
「じゃあ食べよ。もう私、お腹ペコペコ」
 母に促されて、颯太も急いで食卓に着く。
「いただきまーす」
 二人で賑やかに声を合わせて、箸を取った。