第一回 ③

ムーンリバー

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前回のあらすじ

阿賀野陸、35歳、グラフィック・デザイナー、レタッチャー。伯父夫妻が経営する<デザインAGANO>勤務。両親が事故死した後、伯父夫妻に引き取られ、2人の娘、鈴と蘭と一緒に育ててもらった。今日はボクのデザインでリニューアルした蘭の嫁ぎ先・真下家が営む<デリカテッセンMASHITA>に立ち寄る。蘭の夫の晶くんは去年、亡くなった。

イラスト 寺田マユミ
イラスト 寺田マユミ

真下蘭 二十七歳 〈デリカテッセンMASHITA〉

 夕方四時ぐらいからお客さんが途切れることがなくなってくるけど、五時過ぎぐらいから六時までがピークに向かっていく。
 普通の時間帯で生活をしている人たちが、そろそろ晩ご飯のための買い物をしなくちゃ、ってお店にくる時間。
 ほぼ毎日そう。
 私もそろそろお店に出て手伝おうかなって思っていたら、玄関の開く音がして「ただいま」っていう声が。
 え?
 お義兄さんの、翔さんの声?
 慌てて玄関に向かったら、スーツ姿の翔さんが上がり口に腰掛けて靴を脱いでいて。
「お帰りなさい」
「あぁ、蘭さん。ただいま」
「どうしました? 具合でも悪いんですか?」
 まだ四時過ぎ。そして今日は平日。会社勤めの営業マンが仕事を終えて家に帰ってくる時間じゃないです。
「いや、違う。あ、違わない」
 どっちですか。
 そう思ったら、翔さんが右足を持ち上げた。包帯? そういえば、見慣れないものも玄関に転がっている。
 スチール製の松葉杖。
「出先の会社の階段から転げ落ちて、捻挫。痛くて歩けないし、そうなるともう何もできないから今日は帰ってきちゃった」
「え、大丈夫なんですか」
「病院行ってきたから。まぁ大人しくしてて三日も経てば普通に歩けるようになるってさ」
 靴を脱いで立ち上がろうとするから、ちょっと迷って手を貸そうとしたんだけれども。
「あぁ大丈夫大丈夫。ゆっくり歩けば大丈夫だから」
「でも、部屋まで上がれますか?」
 翔さんの部屋は、三階。でも二階にあるここまで上がってこられたんだから、大丈夫なのかな。
「平気平気。おう、ゆう。ただいま」
 優が居間から半分だけ身体を出して、こっちを見ていた。
「おかえりなさい」
 小さい声で言う。
 伯父の翔さんが離婚してこの家に戻ってきてもう半年近く経っているのに、まだ慣れないんだよね優は。
 慣れないというか、なんていうのかな。子供ながらずっと困惑しているというか、そんな感じ。
 死んじゃっていなくなっちゃったはずのパパにそっくりな、優が生まれてからずっとこの家にいなかったパパのお兄さん、翔伯父さんにどう接したらいいのかずっと困っている感じ。
 同じように、少し似ているけれど雰囲気の違う弟のひびき叔父さんは、ずっと一緒に住んでいるからなんともないけれどね。
「じゃあ、晩ご飯も普通に食べられますね。明日もお休みとかですか」
「はい、大丈夫です。晩ご飯は食べるし、会社は休みませんよ。あ、もうそろそろ店に出るよね?」
「出ますよ」
「おふくろたちにも言っておいて。帰ってくるときは誰にも会わなかったから」
 一階のお店の横にある、二階の家への階段。きっとお客さんがたくさん来ていて、お義母さんも響さんも、お義父さんも気づかなかったんでしょう。
「わかりました」
 私は、もう慣れました。
 翔さんが家にいることに。