第一回 ②

ムーンリバー

更新

前回のあらすじ

阿賀野鈴、40歳、出版社勤務の文芸編集者。夫とは離婚して、今はシングルマザー。編集作業が遅れてしまい、娘のやよいが眠る前に帰れそうにないそんな日に限って、明日の授業参観用のお洋服を出し忘れてしまった。こういう時に頼れるのは…。そうだ、伝えておいてもらおう。

イラスト 寺田マユミ
イラスト 寺田マユミ

阿賀野りく 三十五歳 グラフィック・デザイナー レタッチャー

 電話が鳴った。
 今、ワークスペースには新人のはなちゃんしかいないので、ボクが取るよ、と手で合図して受話器を取る。
「はい、〈デザインAGANO〉です」
〈デザインAGANO〉の電話ではあるけど、登録上は阿賀野家個人宅の家電だ。仕事の電話はほぼ百パーセントそれぞれのスマホに掛かってくる。だから、夕方のこの時間に鳴る家電なんて、大抵は保険とかネットとかの営業かなんかの電話なのでわりとぞんざいな感じに出てしまったら、鈴の声。
(陸? 私)
「うん、どうしたの」
(お父さんもお母さんもいないのね?)
「二人とも打ち合わせに出てる。花ちゃんしかいない」
(陸でいい。帰り遅くなりそうなんだけど、やよいが明日授業参観なんだ)
「あ、そう」
(着ていく服はちゃんと帰ってから用意しておくからって伝えておいて)
「着ていく服って? 鈴の?」
(違う。やよいの服)
「あぁ、そう。わかった。それだけ言えばわかるのね?」
(わかる)
「了解。ちゃんと伝えておくから」
(お願いね)
「晩ご飯はそっちで済ますんだね?」
(そう。よろしくね)
 受話器を置く。メモをする。忘れないように。
〈やよいちゃんにママから伝言。明日の服は帰ってからちゃんと用意します〉
 オッケー。
 四時か。そろそろやよいちゃんは学校から帰ってくる頃かな。
「鈴さんですか?」
「そうだよ」
「家電にですか?」
 そうだよね。こんな連絡はスマホでもLINEでもいいのに。
「たぶんだけど、あの人はね、慎重な人だから」
 椅子を回して、花ちゃんの方を向いた。
「スマホに電話したり、LINEするよりも家電に電話した方が印象に残るじゃない。なんで家電に電話、って」
「あぁ、なるほど。うっかり忘れてほしくない連絡ってことですか」
「そういうことね」
 ゼッタイに忘れてもらっちゃ困るから、家電に掛けたんだ。まぁうちの場合は〈デザインAGANO〉の電話でもあるんだけど。
「何の連絡ですか?」
「明日、やよいちゃんの授業参観なんだって。帰りが遅くなるけど、着ていく服はちゃんと用意するから心配しないでって。ねぇ近頃の授業参観のときには子供も着ていく服を選ぶわけ?」
 ボクのときにはそんなことなかったと思うんだけど。花ちゃんは、あぁ、って笑みを見せた。
「私の頃も、女子はわりとそうでした。いつもよりきちんとしている服を着ましたよ。男子はそうでもなかったみたいですけど」
「そうなんだね」
 たくさんお母さんやお父さんが教室に来て見られるから、普段よりいい服を着せるってことなんだね。
 花ちゃんが、ちょっと首を傾げてボクを見る。
「今更ですけど、阿賀野さんのうちってスゴイですよね」
「凄い?」
 何が凄い?
「父親がデザイナーで装幀家で、母親がフォトグラファー。その子供の鈴さんは出版社の編集者で、陸さんはデザイナーでレタッチャー。らんさんは主婦ですけど真下ましたさんのお店を切り盛りもしてる。それぞれが第一線で働いている。こんな才能に溢れた家族ってそうはいないと思います」
 ずっとそう思っていたんだね。たまたま今、父さんも母さんもいなくてボクだけなので、話題にしちゃったんだね。
「まぁほぼ全員が関連企業で仕事をしているというだけで、特に凄いという表現には当たらないとは思うけど」
 そんなにはいない、というのは確かにそうかもしれない。
「あー、でもね」
 別に言わなくてもいいし、花ちゃんが知らなくてもいいことなんだけど、ついでかな。父さんたちはまだ言ってないようだし。
「ボクはね、確かに阿賀野という名字だけど、君のボスの阿賀野達郎たつろう妙子たえこの息子じゃないんだよ」
「え?」
 眼を見開く。花ちゃんの眼ってそうすると本当に真ん丸の眼になるからカワイイんだよね。
「ボクは阿賀野達郎の、弟の阿賀野敬司けいじの一人息子。だから、阿賀野達郎の甥っ子で、鈴と蘭とはいとこ同士なんだよ」
「そうだったんですか?」
 そうなんだ。
 それをきちんと教えてもらってはっきりと、あ、そうだったんだ、と理解したのは小学校に入った頃。
 でも、幼い頃からずっと亡くなった両親、阿賀野敬司と深雪みゆきの写真が小さな仏壇に飾ってあって、これが陸のパパとママだよ、と言われながら手を合わせていたから知ってはいた。
「ボクがまだ赤ちゃんの頃に両親が事故で死んじゃってね。伯父である達郎が引き取って育ててくれたんだ。まぁまだ物心もつかない頃から一緒に暮らしているから、父さん母さんと呼んではいるけれど」
 鈴のことも姉さんと、蘭のことは妹と思ってはいるけれど。
「養子にもなっていないから、続柄としてはそうなるんだ。だからどうだってことは何もないんだけど教えておくね」
 花ちゃんが、ちょっと真面目な顔を見せて頷く。
 花ちゃんは〈デザインAGANO〉が初めて採った新人デザイナーだ。それこそ才能に溢れた女の子で、これから父さんや母さんのいろんなものを引き継いでやってくれるんだろうから、知っておいた方がいいしね。
「ご両親、お悔み申し上げます」
 花ちゃんは少し悲しげに眉をひそめて、頭をぺこりと下げる。いい子だよね本当に花ちゃん。
「あぁ、どうも。いや、でもね、どう表現していいか自分でもわかんないんだけど、実感みたいなものがまるでないからさ」
「そう、ですよね。赤ちゃんのときって」
「ボクは一歳半ぐらいだったみたいだね。本当に何も、これっぽっちも覚えていないんだよ。だから実の親が死んでいるってことも、事実としてわかっているっていうだけで、この頭にも身体にも何も染み込んでいないんだ」
 悲しさとか辛さとかそういうものも、ほぼ、ない。
「たぶん、今、花ちゃんが〈気の毒に〉とか〈可哀想に〉って思ったのと同じレベルのものしかボクの中にはないんだ。全然気にしなくていいから。今まで通りボクはここの息子で、独立して家を出て一人暮らしを始めたけれど、仕事場は相変わらずここに間借りしているお調子者でついでにゲイだってこともそのままで」
 花ちゃんが、笑って頷く。仕事をしなきゃってマウスを手にしたけど、何かを考えるふうにして、また口を開いた。
「私、初めてなんです」
 何が初めて?
「変な意味ではなくて、陸さんみたいにご両親を亡くしたとか、蘭さんはご主人を亡くされて。そういう経験をした人と親しくなるっていうのが」
 あぁ、そういうの。
 そうだね、蘭の夫になったあきらくんが亡くなったのは、花ちゃんがちょうど入社してすぐぐらいだったね。確かに、ボクも夫を亡くした人っていうのは、親しいのは蘭ぐらいだし、社会に出れば、それまでに会ったこともない、いろんな人に出会うものだからね。
 そうか、もう一年経つのか。
「あ」
 そうだった。
 帰りに〈デリカテッセンMASHITA〉に寄ろうと思っていたんだ。デザインを担当してリニューアルして三ヶ月。
 店内に置いたいろんなものの、やれ具合を見るんだった。
 もしも汚れ方があまりにもひどかったり、見栄えの問題が出てきたりしていたら、それぞれの素材ごと考え直さなきゃならないから。
 じきに父さん母さんも戻ってくるだろう。やよいちゃんにきちんと伝えてから、出ればいいな。

(つづく)
※次回の更新は、3月14日(木)の予定です。