第三話 明智小五郎【6】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

太郎を訪ねてきたのは千畝だった。千畝を伴って入った戎橋の洋食屋で、太郎は有名な講談師神田伯龍と若き花菱アチャコに出会う。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

     六、

 専業作家になるためには、名探偵を生み出さなければならない。太郎のこの目論見は、当たったと言っていいだろう。
D坂の殺人事件』は森下雨村うそんに褒められた。特に、明智あけち小五郎こごろうと名づけられた名探偵の造形がすばらしいとのことだった。
「新青年」の大正十四(一九二五)年新春増刊号に掲載されることとなったのをきっかけに、専業作家になりたいのだという旨を父の繁男しげおに告げた。
「やりたいならやってみるがいい」
 ついに父も折れた。好き勝手やっている息子を怒鳴りつける気力がもうないようにも見えた。病魔は確実に父を蝕んでおり、太郎は手放しでは喜べなかった。
 ともあれ太郎は新聞社をやめた。十一月の末のことだった。
 森下は、『D坂の殺人事件』が世に出る前から、直ちに明智小五郎の登場する二作目を書けとせっついてきた。何を書こうかと思案する太郎の脳裏に浮かんだのは、二年前、神戸の図書館で行われた馬場孤蝶の講演だった。
 犯人の犯罪を先に描き、それを、読者も気づかなかった手掛かりをもって名探偵が鮮やかに解決するという斬新な手法―。
 機は熟した。このタイプの小説を書く。これができれば、もう探偵作家としての地位は確立されたようなものだ。
 落ち込むときはとことんまで落ち込んで世間が厭になるくせに、ひとたび妄想が始まればいつまでもその世界で飛び回っていられる。それが、平井太郎という男である。ふらりと立ち寄った古本屋でミュンスターベルヒという精神分析医が書いた『心理学と犯罪』というタイトルの本を立ち読みし、これは使えると確信した。
 かくして、年が明ける前に書き上げたのが『心理試験』という作品だった。
 書いているときは脳が酔っているような状態で傑作だと思う。だが読み返してみると、どうも出来が良くないのではないかと心配になる。まず、文章が全然うまくない。臨場感もないし、謎を上手く伝えきれていないようでもある。一応、明智小五郎が解決役を担っているものの、そもそも小説の体裁を取れているのかすら不安になってくる。こんなみょうちきりんな小説に登場させてしまって明智小五郎に申し訳ない。ひいては、神田伯龍にすら謝りたくなる。
 しかしとにかく締め切りは来る。破れかぶれの心境で、「こんな作品ばかり書いて、専業作家としてやっていけるでしょうか」と相談めいた内容の手紙を同封し、編集部に送った。
 森下の反応は、絶賛だった。
 ―すばらしい才能です。海外の作家でもこれぐらい書ける人はいないでしょう。おそらく小酒井こさかい氏も激賞すると思われます。
 小酒井氏というのは、名古屋に住んでいる探偵作家、小酒井不木ふぼくのことである。精神科医との兼業であり、犯罪心理を扱った作品に造詣が深い。
 森下の手紙はこう続いていた。
 ―『D坂の殺人事件』『心理試験』と秀作が続きますので、編集部としても貴君には大変期待を寄せています。ぜひ「新青年」の一月十日新春増刊号から、六か月連続で江戸川乱歩氏の短編小説を掲載したく思います。
「大変なことになった!」
 太郎は思わず立ち上がり、そこらじゅうをぐるぐると歩き回った。
「どうしたんですか一体?」
 不審がる隆子の声など耳に入らない。
 毎号「新青年」に作品が載る? 専業作家として太郎を支えるための森下の配慮に違いない。それは身に余る光栄と言わねばならない。だが、本当に書けるだろうか? 毎月一本、最低でも五十枚の長さの、読者を満足させるトリックを盛り込んだ小説を、六か月連続で!
 とにかく一度お会いしたいので上京されたし。手紙にはそうも書かれていたが、逡巡した。
 年末にいよいよ発売された「新青年」新春増刊号の売れ行きは上々で、明智小五郎の人気も大変良いという手紙も来たため、無下にはできない。一月の半ば、ついに太郎は上京し、「新青年」の編集部に森下雨村を訪ねた。
「おお、待っていたよ」
 額の広さのわりに眉毛と目のあいだが狭い顔つきが、厳格な印象を太郎に与えた。だが相好が崩れると一気にやさしさのにじみ出る顔でもあった。
「あ、あの、あの…」
 こんなに自分が緊張するとは、太郎は思っていなかった。しかし、ずっと読んでいる雑誌の編集長であり、自分を激励しつづけてくれた人が今、目の前にいると思うと、どうしても上手くしゃべれない。
「ひ、平井太郎です。センポくんがこちらに押しかけ、ぶしつけなことをしました」
 とりあえず、杉原を盾にして頭をぺこりと下げる。
「ああ、外務省の彼ね。なかなかしっかりした後輩だよ。早稲田の出身者は頼もしい」
 森下も早稲田の英文科出身なのだった。
「それより小酒井さんに電話で聞いたんだが、名古屋で財布を盗まれたって?」
「あっ」
 実は大阪から東京へ来るあいだ、太郎は森下同様世話になっている小酒井不木に会うために名古屋に立ち寄ったのだった。ところが駅で置き引きに遭ってしまった。小酒井の連絡先は知っていたから頼ることもできたが、今から専業で探偵作家になろうという男が犯罪の被害者になるなんて…と恥ずかしくなり、そのまま大阪に帰ってしまおうかと思ったほどであった。
「変わった人だね、君は」
 柔らかい表情で言うと森下は、太郎にソファーを勧めた。小一時間ばかり仕事の話をしたあとで、
「今日はこのあと、君の歓迎会をやるから」
 唐突に告げられた。雑誌によく寄稿している東京在住の作家たちを集めているのだという。
「いや、そんな。知らない人にそんなに会わされては困ります…」
「そんなことを言うもんじゃないよ。みんな江戸川乱歩に会いたがっているんだ」
 強引に店に連れていかれた。