むかしむかしあるところに、死体があってもめでたしめでたし。

むかしむかしあるところに、死体があってもめでたしめでたし。

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 手を洗って、テーブルに着く。変装用の帽子とつけひげを見つめ、千畝は岩井いわい三郎さぶろうのことを思い出していた。
 岩井三郎―日本初の私立探偵と言われるその男の名を、大阪の洋食店で平井ひらい太郎たろうから聞いたとき、千畝は運命を感じた。小説の登場人物などではなく、実際に秘匿された情報を暴く存在が日本にいるとは知らなかった。これから外交官として働くにあたり、重要なことをその人物が教えてくれる気がした。
 大阪から東京へ戻り、すぐに千畝は岩井三郎の事務所を調べた。依頼人のふりをして面会を求めると、その日のうちに来ていいという。日本橋のビルの三階に、その事務所はあった。
「電話をくれた方ですか」
 千畝を迎えたのは、岩井本人だった。四角くて気難しそうなその顔は、どこにでもいそうな金魚屋の親父といった感じだが、その目の奥に人の心中を見抜く底知れぬ力のようなものを感じた。
 実は自分が依頼人ではなく外交官であること、ソ連という得体のしれない国家の情報を探るために探偵の技術を学びたいが、あまり時間がないということを早口で告げた。
「依頼人のふりをしたのは、感心せんな」
 岩井の吐き捨てるような言い方に、これはダメかと、千畝はあきらめかけた。だが、
「しかし私も長年、人間というものを見てきている。見込みのある人間かどうかは、一目見たらわかる。あんたには見込みがあるよ」
 と言った。
「あんたの仕事の役に立つかはわからんが、探偵の極意を三つだけ教える。それでいいか?」
 ぜひ、と千畝は答えた。
「一つ。粘り強く、忍耐を忘れぬこと」
 探偵たるもの、必要な情報を得るために何日も同じ場所で待機しなければならないことがある。夏の酷暑のもとで、冬の風雪の中で、目的のために耐え忍ぶ心身が必要なのだ、と岩井は言った。
「二つ、あらゆる階層から情報を求めること」
 人間というものは情報を自分にとって都合のいいように、あるいは自分にとって恐ろしいほうに捉えがちである。ある一定の階層にばかり情報を求めると目が曇り、正確な情勢を見極めることができなくなってしまう。Aという集団から情報を得たなら、なるべく敵対するBからも情報を得て比較検討することが必要だ―これは千畝にとってハッとさせられる教えであった。
 もう一つはなんです? 身を乗り出す千畝に向かい、岩井は口を開いた。
「チウネ」
 義母の声で、千畝の回想は途切れた。目の前の皿の中で、スープが湯気を立てていた。カブやキャベツがごろりと入った、千畝の好きなスープである。
「何をぼんやりしているのです? 早く食べてしまいなさいな」
「ああ、すみません」
 千畝はスプーンを取った。いつの間にか向かいに座っていたクラウディアが心配そうに見つめている。
「大丈夫? 熱っぽいのじゃないかしら? ユダヤ人街に行くのはやめにしたら?」
「そうはいかない。イツァークさんに義理を欠いてはいけないからな」
 ハルビン総領事館に正式に採用されてからというもの、千畝は岩井の二つ目の訓示を常に心がけた。ここハルビンでソ連の情報を集めるには、当然ロシア人コミュニティと親しく交わるのが先決であった。革命で逃れてきた白系の彼らは、ソ連に敵対心を抱いているため、好意的に情報を流してくれる。クラウディアの知り合いも多いためにこれはすぐに上手くいった。
 だが「あらゆる階層」となると、彼らだけでは事足りない。ハルビンには他に、ソ連から逃れてきた人たち―ユダヤ人がいる。白系ロシア人と交流が少ない彼らは独自の情報を持っているのではないか。千畝はユダヤ人街に出かけて彼らと交わろうとしたが、警戒されて上手くいかなかった。
 それでも岩井の第一の訓示を心に粘り強くユダヤ人街に通っていたら、ある日、声をかけられた。振り向くとそれは、かつてロシア人男性二人に殴られていたところを、千畝と根井が助けたあの老人であった。
 イツァークというその老人はやはり癖が強くがめつい男だったが、彼をとっかかりとして千畝は多くのユダヤ人と知り合った。国家をもたない民族である彼らは、ソ連の中に大勢親戚が残されていた。それだけでなく、ヨーロッパやアジア、アメリカなどにも金融を基本とする情報ネットワークを持ち、白系ロシア人たちからは決して得られなかったソ連領内の情報を多く得られた。特に彼らは経済関係にはめっぽう強く、『「ソヴィエト」聯邦国民経済大観』は彼らの情報なしにはとうてい完成させることができなかった。
 それで今でも千畝は、毎週彼らに会いに行く。ユダヤ人は警戒心が強いが、味方になると温かい。しかし、必要な情報を得て会わなくなってしまうと、ただ利用されただけなのだと彼らの心も離れていってしまうだろう。何もなくとも定期的に顔を出すことで敬意と謝意を示すことは必要である。
 ただ、ユダヤ人街に足しげく通っているところを白系ロシア人に見られるとまたやっかいだ。それでいつもユダヤ人街に行くときには変装をするのである。
 スープを口に運びながら、千畝は不意におかしくなる。
 ―まるで君のほうが探偵じゃないか。
 大阪で平井太郎にそう言われたのはもう四年も前になるだろうか。変装してユダヤ人街に紛れ込み、ソ連の情報をかき集めているなどとあの人が知ったらどんな顔をするだろうか。
 いったい今、江戸川乱歩はどんな小説を書いているのか。当分読むことはないだろうな、と千畝は思った。

(つづく)