むかしむかしあるところに、死体があってもめでたしめでたし。

むかしむかしあるところに、死体があってもめでたしめでたし。

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 そう答えると自然と、風に舞い上がる新聞紙が思い出される。現在の仕事につながるあの募集公告を見つけてくれたのは、平井ひらい太郎たろうだった。
「一人思い当たるとすれば、小説家になった先輩がいます。江戸川えどがわ乱歩らんぽといって、けっこう活躍されているのですが」
「うそ…!」
 川島が口元を抑えた。
「私、愛読者です。猟奇的な初期の作品はあまり好まないのですが、『蜘蛛男』からの明智あけち小五郎こごろうの活躍は本当に素晴らしい。敵の懐へためらいなく飛び込んでいく勇気ももちろんですが、相手の心理をついて先手、先手を打つ冷静さ、心が痺れますわ」
 あの作品ではこうだった、あの作品ではああだった、と、彼女はまくしたてた。ただ好きな作家について語る若い女性の姿がそこにはあった。
「知らなかったな、川島君が探偵小説を好きだったとは」
 いつのまにか興奮で頬を紅潮させている川島の姿には、犬沢も驚いているようだった。
「犬沢さんもぜひ読んでください。そういえば今、ハルビンスコエ・ヴレーミャに『魔術師』のロシア語訳が連載されています」
「えっ?」今度は千畝が驚く番だった。「本当ですか、ハルビンの新聞に平井さんの小説が?」
「平井さん?」
「平井太郎というのが彼の本名なんです」
「そうなんですか」
 そのハルビンの新聞は千畝も知っていたが、部数の少ない地方紙なのであまり読まないのだった。
 は、ははははと犬沢が笑い出した。
「杉原さんと川島君は、その作家先生を通じてつながっていたのですね。不思議な縁に乾杯しようではないですか」
 卓の隅にあった金属製の瓶を取り、盃に白い酒を注いでいく。モンゴルの有力者から川島が融通してもらったという馬乳酒である。
「我ら力を合わせ、満州の未来を掴もうぞ! 乾杯」
 犬沢の音頭に三人は盃を合わせ、千畝も一気に喉に流し込む。ずいぶん酸っぱい味がした―そのときだった。
 がらりと戸が引き開けられ、満州人給仕が何事かを叫びながら飛び込んできた。犬沢が立ち上がる。
「中国人暴徒が店に押し入ってきたようです。この店には満州人のアヘン取引業者も出入りしており、そのトラブルでしょう」
 その手にはすでにピストルが握られていた。どかどかと階段を上ってくる音がする。
「やつら、日本人と見たら襲い掛かってくるかもしれない。川島君、杉原さんを逃がして」
「杉原さん、こちらへ」
 川島は狐のようにすばやい身のこなしで奥の壁に近づき、女性のレリーフの枠に手をかけた。かちゃりと音がして、レリーフがこちらに浮いてくる。
「隠し扉…」
「驚いている暇はありません。さあこちらへ」
 レリーフの向こうには人が一人やっと入れるくらいの縦穴があり、天井からロープがぶら下がっていた。川島はそのロープを両手で握ると手本とばかりに縦穴をするりと降りて行った。
「杉原さんも早く」
 促されるままにロープを握って滑り降りる。すぐにレリーフの扉がばたんと閉められた。
 抜け出したそこは、細い裏通りだった。食べ物のかすや打ち捨てられた家具などが散乱する中、酔いつぶれた満州人が数人、横たわっている。
「ここを走っていけば大通りに出ます。私は残って後処理を」
「わかりました」
「また会いましょう」
 この緊急事態において、川島はにこりと微笑んだ。手が差し出されたので握手をすると、やはり柔らかい女性の手だった。
 ぱん、ぱんと二階から銃声が聞こえる。杉原は薄汚れた路地を走り出す。
 ハルビンの知らない夜が、そこにはあった。

(つづく)
※次回の更新は4月12日(金)正午の予定です。