第五話 満州国と二十面相【2】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

密かに接触してきた関東軍の犬沢という男に千畝が紹介されたのは、〈男装の麗人〉川島芳子だった。その場で川島は意外な告白をする。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

     二、

 犬沢いぬさわとはそのあとも情報交換をし合い、何事もない日々がすぎていくようだった。
 だが川島かわしま芳子よしこと会ってから三か月が経った九月十九日の午前零時すぎ、突然それは起きた。クラウディアと義母と住んでいる家に総領事館から特別に引かれている電話が、けたたましく鳴ったのだ。
杉原すぎはら、緊急事態だ。今から来い!〉
「わかりました」
 受話器を置き、気配を感じて振り返る。オレンジ色の電灯の光の下、クラウディアと義母が心配そうに千畝ちうねを見ていた。
「大丈夫? 漢人が攻めてくるのではないかしら」
「おお、おお、チウネ、我が息子よ。行かないでおくれ、あなたにもしものことがあったら私は…」
 義母がすがってくる。ちょう学良がくりょうたちの暴虐な振る舞いについては彼女たちの耳にも入ってきており、もしハルビンにて中国人武装組織が暴れるようなことがあれば、日本人である千畝が危ないだろうと心配しているのだった。
「大丈夫ですよ、帰ってきますから」
 義母の手を握ってそう伝え、クラウディアと目線を交わして外へ出た。
 総領事館には、ほとんどすべての職員が招集されていた。
「諸君に報告がある」
 総領事、大橋おおはし忠一ちゅういちが皆を見回して言った。
「二十二時二十分ごろ、奉天ほうてん郊外、柳条湖りゅうじょうこ付近にて、南満州鉄道の列車が走行中、前方レールが何者かによって爆破された」
 沸き上がるざわめきを静めるように、大橋総領事は声を大きくした。
「幸い、爆発はレールを断裂させるほどの規模ではなく、乗客は全員無事で、列車は事故現場を通過した」
 安堵の空気が流れたが、千畝は違和感を覚える。大橋総領事はつづけた。
「満鉄の調査部より先に関東軍が現場に駆け付けて調査をしたところ、付近から中国軍の小銃と軍帽がいくつも発見されたそうだ」
「張学良だ!」
 若い同僚が叫んだ。他の面々も口々に不安を声に出しはじめる。
「そうだ。やつは関東軍により、父親を列車ごと爆破されている、その意趣返しだ!」
「これから先、あらゆる線路が爆破されるだろう」
「ハルビンは孤立する! 先手を打たないと!」
「待ってください!」
 千畝は耐えかねて声を上げる。
「張学良のしわざにしては規模が小さくないでしょうか。父親の復讐というなら列車ごと爆破してもよさそうなものです」
「なんたる不謹慎なことを言うのだ、杉原!」
 一人の同僚がつかみかかってきた。千畝はその手首をつかむ。
「私は冷静になるべきだと言っているのです。今回の手際はまるで列車や日本人乗客を傷つけまいとする意図があるように思えます。中国軍がわざわざ軍帽や小銃を置いておくのもおかしいですし…そもそも、どうして関東軍はそんなに早く駆け付けることができたのでしょうか 
「まさか、杉原さん」若い同僚が訊ねる。「爆破したのは関東軍だとおっしゃるんですか?」
 千畝だってそうは考えたくなかった。だが張学良にしては納得できない点が多い。
「実は奉天の総領事もその可能性を考えているようだ」
 厳かに、大橋総領事が言った。職員たちはみな、静まり返る。
「いずれにせよ今のところ我々は見守るしかない。外務省とは奉天の総領事館が連絡を取り合っている。今日よりしばらく昼夜ともに総領事館の駐留人員を増やす緊急配備態勢を取る。休暇は減るが覚悟しておいてくれ!」
 杉原はいつも通りの出勤となり、一度自宅に戻ることになった。同僚たちと別れ、ロシア人居留区の自宅へ向かう。夜気にはまだ夏の香りが残っていて、空には星が瞬いていた。寝静まったハルビンの街はおそろしいほどに穏やかだった。
 ふと、千畝は立ち止まった。前方のにれの街路樹の陰に、人がいたからだった。
「杉原さん」
 犬沢だった。彼は千畝の前に走ってくると、いつかのように背筋をぴしりと伸ばし、「申し訳ない!」と腰を九十度に曲げた。
「柳条湖の鉄道爆破は、わが軍の一派のしわざです」
 あまりにあっさり白状したので、千畝はかける言葉を見つけられなかった。犬沢は頭を上げる。
「しかし信じてください。私たちは知らなかった。あれは石原いしはら莞爾かんじ中佐を取り巻く急進的な一派が勝手に起こした事件なのです」
 関東軍のその参謀は、張学良を軍事的に追い詰めて満州全域を日本の勢力下に収めようという主張をしているそうだ。関東軍の駐留の本来の目的は、満州在住の邦人ならびに満鉄の警護である。張学良のほうから武力行為をしかけてこない限り、武力で制圧はできない。だからきっかけとなる武力行為をでっち上げてしまおうという魂胆らしかった。
「一味が爆薬を勝手に持ち出しているという情報を、私の上司がつかんでおりました。それを前もって杉原さんにお伝えできれば、今回のことは外務省を通じて止められたかもしれなかった。この愚か者め、この怠け者め!」
 自分の頬を殴る犬沢を、千畝は慌てて止めた。
「落ち着いてください。大事なのはこれからどうすべきかということです」
「ええそうです。杉原さん。状況は決してよくありません。ハルビン駐留部隊もこの流れに乗る気のようです。近日中に張学良のしわざに見せかけ、日本の施設に攻撃をしかける動きがあります。総領事館も攻撃対象の候補になっています」
「なんですって?」
 杉原は思わず大声を出した。お静かに、と犬沢は人差し指を立てた。