「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞&女子大生作家・上村裕香最新作「水随方円」②

「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞&女子大生作家・上村裕香最新作「水随方円」

更新

前回のあらすじ

仙台出身の夏生は志望大学に合格し、念願の東京での女子大生ライフを手に入れた。しかしコロナ禍と共に始まった大学生活は、入学式さえ行われず、想像していたおしゃれとは程遠い、孤独な生活だった。そんな夏生が唯一会話をするのは、担当教官の高遠。亡き祖父とどこか重なる高遠に夏生はいつしか…。

イラスト くまぞう
イラスト くまぞう

 ジュンさんはありがたいふくらみを賜われたらしい。レンタル彼女からのビンタと引き換えに。でも特に人生一発逆転した感じもなく、今日も「情交こそがぼくの人生を変えるのでは」と妄言を吐きつづけている。彼はレンタル彼女サービスを出禁になって以来、夏生に「通話の次に行きたい」「ふたりでテニスしませんか」と言うようになった。夏生はいつもあいまいに笑ってかわしていた。
「ケニアではコロナの影響で子ども全員留年して、入試もないらしいよ」とジュンさんが言う。ビデオ通話越しのジュンさんは室内なのにマスクをしていた。全員留年というのはこの一年にぴったりの言葉だなあ、と思いながら「留年はしたくないなあ」と砕けた口調で返す。
「ぼくは留年しそう」
「えっ、なんでですか?」
「うちの大学、オンライン授業なのにレポートだけは紙で提出なんて意味のわからないシステムなんだよ。で、期末レポートをまとめて提出しに行ったら、エレベーターに乗った瞬間『満員です』ってブザーが鳴って」
「あー」
「で、1回見送って地下1階から4階まで乗ったんだけど、各階で降りる人乗る人がいて時間かかって」
「ありますね、そういうの」
「事務室の人に目の前で扉閉められて…1秒でも遅れたら受けつけませんって」
「不運ですねえ」
「もうぼくなんて生きてる価値ないんだよ、11浪1留なんて末代までの恥だ…どうせぼくが末代なんだけど…」
 ジュンさんは整えられていない太い眉を常に下げていて、天然パーマの髪は真ん中でぱっくりとわかれていた。雨に濡れた野良犬みたいな印象の人だった。不憫でかわいそうで、拾いたいとは思わない野良犬。
「会いたい」
 ジュンさんが言った。それは性欲にまみれた彼の言葉より、ずっと切実な響きで夏生の鼓膜をくすぐった。スマホのカメラ越しに彼は夏生を見ていて、夏生も彼を見ていた。
「会いたいですよね」と答えて、少し間を置いた。カメラ越しに、彼の瞳が黒く濡れた気がした。「緊急事態宣言が解除されても、県をまたいでの移動はまだ難しいじゃないですか。実家にいる家族と、もう半年も会えてなくて、さみしくて禁断症状出ちゃいそうですよ。やっぱりリアルで会いたいですよね」
 わざと外したことを言って、微笑む。ジュンさんの頬がこわばる。iPhoneのカメラは高性能で、彼の表情が固くなったのが、よくわかる。彼は下を向いて「会いたいよね」ともう一度言った。そのあいだ、夏生が考えていたのは先生のことだった。
 通話を終えると部屋着のまま、マスクだけしてアパートを出た。心がささくれだっていた。少し遠くのコンビニで缶チューハイを何本か買う。未成年だと咎められないかとヒヤヒヤしたが、店員は夏生に一瞥いちべつもくれなかった。
 帰り道、辛抱たまらなくなって缶をあおった。はじめての飲酒が新歓でも宅飲みでもなく、ひとりでコンビニのチューハイか、とむなしくなる。帰路はヤケ酒が似合う夕暮れだった。
 会いたい。ジュンさんの声が頭をめぐって、離れなかった。世界がコロナで一変して、きっと何億人ものひとが遠くのだれかに思いを馳せて発してきた言葉だ。会いたい。夏生も、何度だって思った。オンラインでしか話したことがないひと。まだ出会ったといえるのかもわからない、でも好きになってしまった彼に、会いたいって。
 下宿までの距離がずいぶん遠く感じた。アルコールなんて飲んだからだろうか。自分がどこを歩いているのか、わかるのにわからないような感覚。体が熱く、気分が昂っている。アルコールなんて飲んだからだ。
 下宿に帰りつくころには、雨が降りだしていた。窓ガラスに映る自分の顔が、灰色のフィルターをかけられたように見えた。目に光がなくよどんでいた。【tktoセラピー分室】からいくつも通知がくる。「リアルtktoに会ったら卒倒するかも」という文字が目に入ってきて、最後まで読まずに通知を切る。
 電話をかけた。スマホのキーパッドを叩く爪の先が割れている。白い縦筋が何本も入った、不健康な爪だ。コール音は長かった。音が途切れる。
「先生」
 高遠先生は返事をしない。息づかいだけが電話の向こうから伝わってきた。
「会いたいです」
 言った瞬間、なにかが崩れて楽になった。
 少しの間があってから、咳払いの音がした。その音にさえ耳をそばだてている自分に気づいたとき、わたしはずいぶんと先生のことが好きだったのだなあ、と夏生はなかば感心した。
「ぼくも、はやくお会いしたいですよ」
 先生は、いつもより遅いテンポで声を発した。
「最近はオンラインにも慣れてきて、しかし慣れるというよりこれは諦観だと思うんですよ。いわばトルストイの『イワン・イリッチの死』でイワンがたどり着いたような、死の病に苛まれながらたどり着いた諦観に我々はいるわけで、それはある意味で素晴らしい経験なのでしょうが、竹久夢二に言わせれば他者に会いたいのは人間の本能なわけで」
 雨は勢いを増し、窓を叩いていた。いまだけは引用じゃない、彼の本心からの言葉がほしかった。けれど、夏生はそれを口に出せなかった。電話が切れると、雨の音だけが部屋を満たした。