「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞&女子大生作家・上村裕香最新作「水髄方円」④

「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞&女子大生作家・上村裕香最新作「水随方円」

更新

前回のあらすじ

休職届を出した高遠先生の自宅マンションにアポなしで訪問した夏生は、先生の部屋で暮らす若い女性から、先生とは音信不通で、今年の6月には女子学生にセクハラ騒ぎを起こされていたと聞く。先生が新人賞に応募した小説に剽窃騒ぎが浮上していたことも判明するが、夏生は実家の住所を特定。先生の実弟に会うが、心配する夏生に彼は「兄貴が、死んでるんじゃないかとか思ってんのか」と言い放つ。

イラスト くまぞう
イラスト くまぞう

 アパートの外廊下には人が通らず、建物そのものが山の中にあるような静かさだ。外廊下から見える坂道の先、山の中腹に倒木が2本、折り重なるようにしてあった。
「いやいや、あの人は生きてるよ」
 弟が軽い、バカにしているんじゃないかと一瞬思う口調で否定した。細く背の高い木々に周囲を囲われているから山道そのものにはあまり日光が届かない。しかし、中腹にあるその2本の大木にだけ光が差していた。
「なんでそんなことがわかるんですか」
「葬式の連絡きてないもん」
「そ、それはそうでしょうけど…じゃなくて…」
「シンプルにあの人だからかな。なんていうか、殺しても死なねえっていうかね。おれが高校のころ、あの人がアル中みたいになったことがあって、あー、博士取れねえでやめたあたりかな。親父との関係も最悪の時期で、いまさら就職もできねえしどうすんだろうなあって思ってたら、実家帰ってきてさ、いや、東京の部屋引き払ったとかじゃなくて。突然いたの家の廊下に。声かけようとしたら、すって親父の部屋に入っていって。すぐでてきて、それっきり会ってない。10年だよ。親父、空き巣に入られたって騒いで。長編小説の未発表原稿、ごっそりなくなってたんだな。古い作家だから手書きでね、コピーもねえの。大変だったんだから。あの人は知ったこっちゃなかったんでしょうけどねえ。うーん、だどもなんかおれは親父に言う気になれねかったんだよ。おれもわかんだ。才能ねえやつのきもちは」
…そうですか」
「だから、もう放っといだらえんじゃねか」
 彼はそう言って、一方的に電話を切った。通話が切れてからも、しばらくその場を動けなかった。手からスマホが落ちそうになって、ジュンさんが寸手のところで受け止めてくれた。「ないすぅ」と自分で言っている。雨は降りやまず、視界は暗いままだった。倒木のある一角だけが、山中に空白地帯が突然現れたような明るさを保ってそこにあった。
 外廊下には雨が降りこんで、髪を濡らしていた。遠くを見つめる夏生を見かねたのか、ジュンさんが「次いこう次」と腕を引っぱった。非力そうなのに、腕を掴まれると痛い。夏生は山の倒木から目を離さないまま、「次なんてもうないよ」と弱音を吐いた。
「放っといたらいいって、その通りだと思う。なんで追いかけてるのかも、もうわかんないし。終わりにしましょうよ」
…夏生ちゃん」
「高遠先生のことなんて、興味ないでしょ? つきあってくれて、ありがとうございました」
 ジュンさんに両手を掴まれて、立ち上がらされる。肩の関節が痛んだけれど、文句もでてこなかった。ジュンさんは明るい表情をつくって、夏生の顔を覗きこんできた。
「興味は湧いてきたよ? 潔癖すぎてコロナ怖―いってカノジョの家飛び出して引きこもっていまは休職してだれとも連絡つかなくて? twitterではセクハラ講師、元大学では盗作野郎って言われて。弟にも探してもらえない。役満じゃん。本当はどんなやつか、知りたくはあるよ」
…本当」
「本当なんてもんがあるのかは知らないけどさ」
「それが、ジュンさんの本当?」
 ジュンさんの手を振りほどいて、ジュンさんがいつのまにか拾っていた封筒を取ろうとする。彼はうまいこと夏生の手をかわして、逆にその手を掴んだ。「ウソ」と呟くのが聞こえる。顔をあげると、彼の顔が間近にあった。
「ぼくが興味あるのは夏生ちゃんだけだよ」
 ジュンさんが、眉をハの字にする。落ち葉を濡らす、雨のにおいがする。
「高遠なんて忘れてよ。ぼくが原宿でも渋谷でも連れていくよ。バイトがんばってぜんぶ奢る。どこ行きたい? パンケーキ食べに行く? タピオカミルクティーふたりで飲む?」
「さっきと言ってることがちがう」
 夏生が首を横に振ると、髪の先から雫が落ちた。
「ウン、気が変わった。もうやめよーよ、こんなこと。夏生ちゃん、いいかげん目覚まして。たかが先生じゃんか。お祖父ちゃんとなんの関係があるのか、よくわかんないけどさ、もういいでしょ。で、ぼくとつきあってよ。ぼく、その、高遠って人に勝てるとこないかもしれないけどさ」
 ジュンさんが夏生に体をよせる。掴まれたままの手を振り払おうとするけれど、解けない。彼の顔が近づく。マスク越しに唇が触れあったのは一瞬だった。
「キスはできる」
 バシ、と音がしてから、自分がジュンさんの頬を叩いたことに気づいた。彼は真顔で夏生を見つめ、突然おっぱいを揉んだ。左胸だった。横乳を下から掬いあげるみたいな、いかにもAVのマネみたいな仕草。夏生がいやがるのを期待しているみたいだった。
「やめてよ」と彼の手を掴んで引き剥がしながら、嫌悪という正しい反応よりも先に、羨ましい気持ちが湧いているのを、夏生は自覚していた。夏生は高遠先生のからだに触れるどころか、会って言葉を交わすこともできないのに、彼は夏生のありがたいふくらみに触れる。ジュンさんの手首の筋のところをギュッと握ってやると、彼が「ギャ」と小さく叫んで、夏生の肉体から手を離した。少しの接触もなくなる。身を引く。ジュンさんはそれ以上追ってこなかった。
 それから、ジュンさんとは会わなくなった。