「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞&女子大生作家・上村裕香最新作「水髄方円」③

「女による女のためのR-18文学賞」大賞受賞&女子大生作家・上村裕香最新作「水随方円」

更新

前回のあらすじ

世界がコロナで一変して、きっと何億人ものひとが遠くのだれかに思いを馳せて発してきた言葉だ。会いたい―。オンラインでしか話したことがない高遠先生を好きになってしまった夏生。大学の授業も後期からようやく対面授業が始まり、先生に会えることを何よりも楽しみにしていたが、先生の授業は休講が続き、大学には休職願が提出されたという。夏生は友人の柚愛とアポなしで先生の自宅に向かうが、そこにいたのは見知らぬ女性で…。

イラスト くまぞう
イラスト くまぞう

 その部屋のドアが開かれると、ドアと同じ長さのビニールのカーテンが下がっているのが見えた。女性はカーテン越しにドアロックを固定し、15センチほどの隙間からこちらを見ていた。15センチ以上は開けないという強い意志が伺える。
 夏生と柚愛はドアの隙間から室内を覗きこむようなかたちでふたり立った。「休職されるまえ、よく連絡をくださっていて、授業はずっとオンラインでお会いしたことはないんですけど。尊敬する先生だったので、いまどうしていらっしゃるのかどうしても知りたいんです」と柚愛が目をうるませて訴えると、女性は10分だけなら、と話を聞くことを許してくれた。
「失礼ですが、高遠先生とのご関係は?」
…一応、おつきあいさせてもらってる者ですけど」
 柚愛の質問に答えた女性は、すぐに表情を動かした。目尻にしわが寄って、眉と眉の間が狭くなる。皮膚が盛りあがる。マスクの下で、彼女が笑ったのがわかった。「ま、もうつきあってるって言えるのかはわからないですけど」
「それはどういう?」
「もう2か月くらい会ってないから。連絡も。もともとここに住んでたんですよ。あ、ここはわたしの家ね。住んでいたっていうか、居座られて半同棲みたいな? あの人は潔癖だから、自分の部屋に人をいれたがらなくて、会うときは外かわたしの部屋で、気づいたら月の半分くらい彼がうちに泊まってるみたいなことになってて。それが嫌だったわけじゃないですけどね。わたしも結婚を考える年齢だし」
 女性は20代後半か30代前半くらいに見えた。高遠先生は何歳なのだろう。Zoom越しの印象だと若く見えたけれど、経歴や職業を考えると、40歳くらいだろうか。女性より10は上? 夏生はひとり憶測を巡らせながら、先生に彼女がいるかどころか、何歳なのかさえ知らなかったことに、静かに気持ちが落ちていった。夏生が知っているのは、Zoomの小窓に表示された高遠真輔という名前と、Wikipediaに書かれている情報、画面越しに接する彼の虚像だけだった。
 室内からは芳香剤の甘ったるい香りがして、冷気が漏れだしていた。扉の奥は薄暗くよく見えないが、白い大きな棚があるのだけが、陽光を反射するビニールカーテンの隙間から見えた。
「会ってないというのは、なんでなんですか」夏生が聞く。
「彼がこなくなったってだけよ」
「連絡は…」
「返ってこないわ。まあもともと冷たい人だったし、そんなものかなって」
「冷たい人?」
「そ、理由は聞かなくてもわかってるのよ。コレ」と女性はビニールカーテンを指先でつまんだ。整えられた長い爪の先が欠けている。「あの人がつけろってうるさいからつけたの。すごく神経質で怖がりで、コロナが騒がれだしてからは、うちに来たらまず玄関で全裸になってシャワー浴びて、消毒スプレーと除菌シートで部屋中拭いてからじゃないとわたしと顔も合わせてくれなかったのよ。フードデリバリー頼んだときにカード払いができなかったから置き配じゃなくて配達員から直接受けとったら激怒されてね。そのときから、コレ。で…緊急事態宣言がでたころかな、もううちにもきてくれなくなっちゃった。出てすぐは電話はこまめにして彼も出てくれてたんだけど、それもここ2、3か月はなし。自然消滅ってやつじゃない?」
「なんというか、先生としての高遠さんと、ずいぶんちがうんですね」
「そうなの? けど、学生さんに接するときと恋人に接するときが同じだったら怖いでしょう。あの人はそこ混同しちゃうようなところもあったけど。だからセクハラとか言われるのよ」
「セクハラ?」柚愛が高い声をだした。耳にキーンと響く。
「あ」
 女性が目をゆっくりとつぶって、開ける。伏し目がちになったときの一重瞼の重そうな雰囲気が色っぽい。長いまつ毛の影が頬までかかっている。きれいな人だ、と改めて思った。どきどき。
「コレまだ話題になってないんだ? 6月くらいだったかなあ、担当の女子学生がZoomでセクハラされたって騒いでメール送ってきたとかなんとか、ずいぶん動揺してたのよ。本当かどうか知らないけど」
「はあ」
「真一にセクハラするほどの熱量っていうか欲望? があるとは思えないけどね。なんにでも淡白で、なんにも興味ありませんって人だもん」
「ちょっ、と、待ってください」
 夏生はビニールカーテンの前に手をかざした。女性が眉をひそめるのを見て、あわてて引っこめる。
「真一さんって言うんですか?」
「え?」
「名前…本名は、真一って言うんですか」
「ええ。そんなことも知らなかったの?」
 彼女の疑問はマウントじゃなく、ただ本当にでてしまった疑問という印象を受けるモノだった。夏生たちは答えられないまま、ただ首を縦に振った。知らなかった。もう半年も、授業を受けていたのに。
 そのとき、部屋の奥から甲高い子どもの声がして、100センチもないくらいの身長の子どもが女性に突進してきた。「コラ、そーちゃん」と女性が振り返る。髪の毛を耳の上でふたつに括っている。女の子だろうか。ぱっちりとした二重だった。口の周りをチョコとよだれでべちょべちょにしている。
 呆気にとられたまま、女性はあわてたように、「親戚の子どもを預かってるの。もういい?」と言って、ドアを閉めてしまった。
 マンションを出ると晴れあがった空の白い光に瞼の裏が点滅した。柚愛が夏生の腕に手をかける。行きと同じく、柚愛に引っぱられるようにして帰路を歩いた。公園から車道に飛びだしてきた小学生がクラクションを鳴らされている。
「めっちゃ二重じゃん」
 柚愛が、クラクションを鳴らされている子どもを見つめながら言った。小学生の顔の仔細はここから見えない。その小学生を形容しているのではないことは、夏生にもわかった。二重幅が広くて、細面で…高遠先生を連想せずにはいられない、あの女の子―。
「でも、わかんないじゃん。ほんとに親戚の子かも」
「あひる口な感じも似てた」
「子どもはみんなあひる口だよ」
 夏生が言うと、柚愛が急に身を寄せて、肩をぶつけてきた。ボールを胸に抱く小学生の子は、熱中症が心配になる顔をしていた。あごまでずり下ろされたマスクの上、赤い頬を汗が伝う。それは先週の柚愛を思い出させた。横目でうかがうけれど、柚愛の表情は読めなかった。
 信号待ちで立ち止まったとき、柚愛がスマホを夏生に向けてきて、見るとTwitterの画面が映し出されていた。K大学文学部の講師T先生にZoomセクハラされました!と告発する文章。は、と浅い息が漏れる。セクハラの内容は具体的に書かれていなくて、ジェンダーをもちだして褒めるのがきもち悪いとか、性的なニュアンスの言葉が不快だとか、感情的な乱文に終始していた。「こんなやつが文学やってるとか、終わってる」と呟くと、それまで能面のような表情をしていた柚愛が「思想強っ」と笑った。
 夏生は自分がこの女子学生らしきTwitterアカウントを嫌悪しているのを自覚していた。先生はそんな人じゃない。そう思ってから、本当に? と自問する。
 ―そんなことも知らなかったの?
 彼女の声がフラッシュバックした。振り返っても、マンションはもうとうにほかの建物の陰になり、見えなくなっていた。

成瀬は天下を取りにいく

成瀬は天下を取りにいく

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「ごめんごめん」とジュンさんはコインランドリーに山盛りの洗濯物をもって入ってきた。洗濯物の色はほとんどが白と黒で、一枚だけ深い紅色のボクサーパンツが紛れるようにあった。
「ごめんねほんと、こんなところで。あっ、Wi-Fiは使えるから!」
「呼び出したのはこっちですから」
 夏生が言うと、ジュンさんは相好を崩し、洗濯カゴを備えつけの机の上でひっくり返した。高遠先生の元カノに会って、1週間が経ったころだった。
 はじめて対面で会うジュンさんは、想像よりも背が高かった。日陰で成長してきた植物のような、頼りなげな体つき。歩くときに頭を上下に揺らす癖があって、向き合ってしゃべると頻繁に鼻をすんすん鳴らした。目の前にいる彼は新しい発見だらけなのに、沙也加とはじめて会ったときのような、偽物感はなかった。ジュンさんの本当なんてほとんど知らないも同然なのに、ぜんぶがジュンさんっぽかった。
 白く清潔な床に照明が反射している。コインランドリーの建物全体に柔軟剤のにおいが染みついていた。洗濯機は何台か回っていたが、コインランドリーのなかは無人で、夏生たちしかいなかった。ベンチにふたり並んで座る。ソーシャルディスタンスを意識しましょう、という張り紙が長方形のベンチの真ん中に貼られていて、それを挟むようにして座った。
 こうして会うことになったのは、夏生がジュンさんを呼び出したからだった。後期授業が対面ではじまってからも、インカレテニスサークルは飲み会禁止で、当然のようにテニスを真面目にやりたい人はおらず、活動が停止していた。相変わらずジュンさんは彼女も友だちもできないまま「会いたい会いたい会いたい」と西野カナばりに連呼していて、そこに夏生がつけこんだのだ。
 高遠先生が夏生の通うK大学だけでなく、ジュンさんの所属するW大学でも非常勤講師として働いているということを知ったのは1週間前だった。副手さんが「高遠先生の居場所なんて、わたしのほうが知りたいよ?。決済書類、今月までなのに!」と愚痴を交えながら教えてくれたのだ。
 その夜、すぐさまジュンさんに「W大なんだよね?都会的だなあ、憧れちゃうなあ、一回わたしも講義受けてみたいなあ、W大のキャンパスに潜りに行きたくなっちゃうかもなあ、そしたらジュンさんとも定期的に会えますね〇〇 っていうかどこかで会いましょうよ?」とLINEしたら、ジュンさんはホイホイきてくれた。大学生はどこか社会から隔絶されていて、コロナ禍以前にはまだ遠く及ばないものの、後期に入り対面授業が再開されてからは会うことがカジュアルな選択肢として復活してきた感じがあった。
 ジュンさんにIDとパスワードを打ちこんでもらい、W大学の講義のZoomにアクセスする。夏生がわざわざ彼を呼び出してまで頼みたかったことが、それだった。
 ジュンさんは高遠先生と学部がちがうから捜索の手がかりをもっていない。しかし、先生の出身校でもあるW大の文学部の教授なら、高遠先生の行方を知っているんじゃないか。それが夏生の推理だった。
 ロード画面からZoomの画面に切り替わる。坂田という教授が「ヤコブソンいわく異化された文章というのは『日常言語への組織的暴力行為』である。では文学というのは詩的言語的構造の中でしか存在し得ないかというとそんなことはない、むしろ自動化された言葉そのものこそが異化効果の形而下にある場合もあり…」とぶつぶつ呟くみたいな音量で喋っていた。なんの資料も共有されない、教授の単調なひとり喋りを聴くタイプの授業らしい。終了時間まで、夏生とジュンさんは高遠先生のWikipediaを見て好き勝手なことを言っていた。
「太宰賞最終候補だって。エ、そのひとは小説書くひとなの?」とジュンさんが聞く。
「みたいですねえ。研究者であり作家? 作家志望? 作家もどき?」
「もどきと並べると志望が死ぬ亡くなるの死亡に聞こえる」
「死んではいないと思いますよ、きっと。たぶん。おそらく」
 ジュンさんは夏生のほうを見て「見つかるといいねえ」と目を細めた。夏生は返事をしなかった。
 授業が終わると、グリッド状になっていた学生たちのアイコンがどんどんと消えていき、ジュンさんのアイコンと教授の顔だけが画面に残った。よく見ると、ipadの画面に映っているビデオ通話アプリは背景の加工ができるアプリで、坂田教授の背景はぼかされていたのだけど、背景と教授の服の色が同じだからか上半身もぼかされ、顔だけが浮いていた。教授は自分が生首状態になっているなんて気づきもせず、「あ、きみたち、ロシア・フォルマリズム興味あるの。ローレンス・スターンってイギリスの作家がいるんだけどね、驚くよ。コレ、なんの筋もないの。おもしろいよー。ぜんっぜんおもしろくなくて、それがおもしろいんだよ」とさっきとは打って変わって興奮した様子で評論している。よっぽど講義後に学生が残ったのがうれしいらしい。
 ジュンさんが肩を震わせながら「なんかこの子が聞きたいことがあるらしくて」と夏生を紹介してくれる。教授が首をかしげると、生首が宙で揺れているようだった。夏生も笑いを噛み殺す。「高遠先生と連絡を取りたいんです。どこにいらっしゃるかご存知ないですか」と尋ねると、教授は授業を勝手に受けていたことに文句を言うでもなく、
「えー高遠クン? うーん、マアマア仲よかったけどさあ、いまの連絡先は知らないねえ。そもそも院時代の指導教官でもない、ただの同僚だし、彼は非常勤だったからねえ」
 と手元でレジュメをばさばさいわせながら言った。
「でも仲はよかったんですね」と夏生は身を乗り出した。
「ほかの先生たちと比べれば、って程度だよ。あの人、他者と関わりもちたくないタイプじゃん?」
「そうなんですか? わたしはオンラインでしか授業を受けたことがないから、わからなくて」
「あ、そうか。うーん、なんていうか、典型的な学者タイプかなあ。しかもプライドが高くてコンプレックスが強いほうの。学内政治とか学生指導とかはムリ。向いてないね。大学教授っていうのは半分以上いかに学長以下学部長学科長エラい人間にごま擦ってとり入るかが重要なワケ。ああいう部屋にこもって文章書くのが生きがいって人は非常勤講師にはなれても、教授にはあがれない。一年更新の契約社員みたいなモンよ」
 へー、ととなりでジュンさんが大げさにうなづく。この人、いいひとなんだよなあ、と夏生は思う。突然の呼び出しにも応じてくれるし、自分は関係ない人探しにもつきあってくれるし。童貞だけど。
「捜索願とか、だれも出していないんですか」
「エッ? 捜索願?」
 夏生が以前から気になっていたことを直球で聞くと、坂田教授は戸惑った様子で「なんで捜索願?」と何度も聞き返した。「解雇されただけじゃないの」
「解雇?」
「イヤ、正確にいうと自主退職かな? ぼくはそんなことで退職しなくてもって言ったんだけど、プライド高い人だしねえ。K大のほうも休職したって聞いて相当落ちこんでるんだなあとは思ったけど、そんな物騒なことになってるの、いま」
「ま、待ってください」一気にしゃべる坂田教授の勢いに飲まれ、夏生は手の前で腕をTの字に組んだ。タイム、タイム。「なにがあったんですか。自主退職って、理由は」
 取り乱す夏生とは対照的に、坂田教授は「ぼくもよく知らないけどさー」と前置きをし、軽い口調で話しだした。