猿婿【3】

【試し読み】日本ファンタジーノベル大賞2021大賞受賞作!『鯉姫婚姻譚』

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イラスト/minoru
イラスト/minoru

  その日の夜、おすみはよく研いだ包丁を持って猿の枕元に跪ひざまずいた。
 猿はよく寝ている。猿を包む夜着が、呼吸するたびに上下している。
 普段は人の真似をする猿にしか見えないというのに、闇にぼんやり浮かぶ影は人と同じ形に見えた。
 体の震えを抑えるために立ち上がり、襖を開ける。半月に照らされる猿はやはり猿にしか見えなくてほっとした。
 改めて猿の枕元に跪く。一撃で仕留めなければならない。しくじれば激怒した猿に殺されるのは自分のほうだ。どこを刺せばいい。狸たぬき一匹だっておすみは自分で殺したことはない。
 それでも、無防備にさらされた喉のどは柔らかそうな毛に覆われるばかりで、刃先を阻む何物もなさそうだ。
 静かに息を吸い、吐いて、両手で包丁の柄えを固く握りしめると、高く振り上げた。そうして下ろした腕は、空中の一点で縫い留められた。
 体重を乗せた一撃を急に止められて、全身が衝撃で揺れたけれど、おすみの手首を掴んだ手はびくともしなかった。
 指先だけ毛に覆われていない手は黒くて、親指だけが短い。
「どうした、おすみ」
 猿が殆ほとんど寝ているような声で問いかけてくる。その瞬間、どっ、と汗が噴き出した。体中が熱いのに、頭の中は凍えそうに冷え切っている。
 失敗した。殺そうとして、できなかったのだから、殺される以外に道はない。
「寝惚ねぼけているのか」
 猿は優し気だ。どういうつもりなのだろう。殺す前に言葉でいたぶるつもりなのか。
 猿の目は人の目より色が薄くて、瞳孔ばかり目立つから感情が読み取れない。
 猿が手首を掴む力を強めた。手首がみしりと得体のしれない音を立てる。
「いっ…」
 おすみが声を上げると、猿は慌てて手を離した。
「痛かったか? 痛かったな、すまん、そんなに強く握ったつもりはなかったんだが」
 猿は右手でおすみの手首を撫でさすると、左手で何気なくおすみが握っていた包丁の背を摘まんで引いた。包丁はあっけなくおすみの手を離れて、畳の上に無造作に置かれてしまった。
「ああ、ごめんなあ。おすみは、人というのは弱くて…可愛いものだなあ」
 本当に愛おしそうに、目を細めておすみの手首を撫でる猿が何よりも恐ろしかった。
 何を考えているのかまるで解らない。おすみは現実から逃避するように、ただ包丁を見下ろして、震えた。
「どうした、おすみ。具合が悪いのか」
 猿が問いながら、おすみの視線を追う。そして、そこにある包丁にようやく気付いたような顔をした。
「どうしてこんなものを持っていたんだ」
 何を解りきったことを訊くのだろう。もしやこの猿は、自分が殺されかけたことを解っていないのだろうか。
 そんなはずはない。そんなはずはないと、思いながら。おすみは声を絞り出した。
「山の夜が…どうにも心細くて眠れない。だから月の光を刃先に集めて、お前さんの顔を見ようと思ったのさ」
 猿はじっとおすみを見つめた後、悔やむような声で話す。
「そうか。慣れない山は怖かろう。そんなことも解ってやれなくて悪かった。ほら、そちら側に寝なさい。儂の顔がよく見えるだろう」
 促されるままに横になる。
 なるほど、この位置であれば、月に照らされる猿の顔がよく見えた。その目は相変わらず色が薄かったが、穏やかに揺れてはおすみを見ている。
 そうして見つめあっているうちに、おすみの心には虚しさのようなものが広がっていく。
 この猿は、やはり自分が殺されそうになったと解っていないのだ。包丁が大根だけでなく猿も切り刻める道具だなんてことは思いもよらないのだ。
 殺す、という考え自体を知らないのかもしれない。猿というのはきっと、他者を殺したりはしない生き物なのだろう。
 そう思うと、相手を殺すことで全てを解決できると考えた己が汚らわしく、自分の体を抱きしめるようにして爪を二の腕に突き立てた。
「寒いのかい、おすみ」
 言われてみれば寒かった。
 開いた襖から風が吹き込んでいるのだから当たり前だ。猿が近寄ってきて、おすみのすぐ傍そばに横たわる。
 そうして夜着を一人と一匹の上にふわりと掛け、おすみの肩に触れようとしたから、おすみは反射的にその手を押し返した。