猿婿【2】
【試し読み】日本ファンタジーノベル大賞2021大賞受賞作!『鯉姫婚姻譚』
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猿はどこから来たのだろう。あちらの山だろうか。その山に自分は嫁いでいくことになるのか。
おすみがぼんやり夕焼けに染まっていく山々を眺めていると、二つの人影がそろりそろりと近づいてきた。
「なんだ、姉さ。そんな遠くから」
「おすみ、お前。本当に猿の嫁になる気か? やめとけ。父っつぁまが妙な約束したのが悪い」
「そうだそうだ。父っつぁまが半殺しにされればいいだけの話だ」
一気に駆け寄ってきた姉二人が、肩を怒らせて口々に言う。とめどなく溢れてくる父親への悪口を聞きながら、おすみはふっと口元を緩めた。
「人身御供にされて笑う奴があるか」
人身御供。はっきり言葉にされると身も蓋もないが、きっと父もそう思っているのだろう。卑怯で臆病な質の父は、それを口にはしないだろうが。
おすみは笑いを嚙み殺す。何年も家族をやっているというのに、父も姉もまったくおすみのことを理解していないようだ。まあ、そんな呑気な家族だからこそ、自分がやらねばと思うのだが。
「父っつぁまも姉さも何の心配もせんでええ」
おすみは姉に背を向け、山々の稜線に沈んでいく夕日を覗き込むように背伸びをする。
そして落ち着いた声で言った。
「猿は俺が殺してやる」
確かに化け物のような大猿だった。
村のどの男よりも大きな猿が、人のように服を着て背筋を伸ばして歩いている。見た目通り力は強いようで、大きな花嫁道具の包みを担ぎ、山を登っていく足取りに揺るぎはない。
「疲れたかい、休もうか」
突然猿が振り返ったから、おすみは少々面食らった。猿に気遣いなんかできるのか。平静を装って首を振り、何とか言葉を返す。
「いんや、もうちょっとで着くんだろう。このまま進んでくれ」
「疲れたら言うんだぞ。そうだ、担いで行ってやろうか」
赤い猿の顔が歪み、人と同じ口の動きで言葉を紡ぐ様は無性に気味悪かったが、おすみは屈託なく笑って見せた。
「何を言う。俺の荷物だけでもそんな有様なのに、更に重い荷を負わせられるか」
「重いもんか。大事な花嫁の脚を傷めるくらいなら、なんだって負ぶってやる」
「いいから前を向いて歩け」
調子が狂う。恐ろしい大猿が脅してきたと父が言うから決死の覚悟で嫁に来たというのに、この丁重な扱いは何だろう。
窮屈そうな着物に包まれた猿の毛はみっしりと詰まって雪の一粒も通らなそうだ。
早く殺さなければならない。早く殺して、山を下りなければ。珍しい大猿の毛皮はきっと高く売れることだろう。
山道の木々の葉が赤い。猿のねぐらとはどんなものだろう。猿と同じ暮らしで人が山の冬を越せるだろうか。
そう、思っていたのだが。山の上について、おすみは驚いた。
しっかりとした藁ぶき屋根の家がある。猿がずんずんと入っていくのについていけば、家の中も綺麗なものだった。
戸を開ければ土間があり、先に進めば田の字型に部屋が四つ。竈や囲炉裏、鍋に包丁等、生活に必要なものが揃っている。食料の貯蔵も十分だ。
これなら何の障りもなく冬を越せる。おすみは猿に問いかけた。
「お前さん、この家、どうしたんだ」
「ここはなあ、少し前まで木こりの爺様が一人で暮らしておったのよ。随分仲良くしてくれてなあ、言葉を教わる代わりに仕事を手伝ってやったりもしたんだが」
猿はそこで言葉を切る。視線を彷徨わせてから続けた。
「病で亡くなってしまってな。爺様は、自分が死んだら形見になんでもくれてやると言ったから、ありがたくここに住んどる」
そして猿は、ようやく花嫁道具の包みを降ろした。包みを解くと、大きな石の臼が現われる。首をひねる猿に、おすみは言った。
「俺の村では、花嫁道具には石の臼を持っていくもんなんだ」
おおそうか、と猿は竈の横に石臼を置いた。おすみはそれを見ながら小さく呟く。
「まあ、使うこともないとは思うけどな」
「いやあ、餅をつくのに必要だろう。丁度木の臼が壊れてどうしようもねえと思ってたところだ」
猿が朗らかに石臼をぽんと叩く。おすみはじっと石臼を見て、この重さはどれくらいのものだろうかと考えていた。