猿婿【5】

【試し読み】日本ファンタジーノベル大賞2021大賞受賞作!『鯉姫婚姻譚』

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イラスト/minoru
イラスト/minoru

…父っつぁまは桜が好きなんだ。枝を一本、貰ってきてくれねえか」
 震える声でおすみは頼んだ。どんな枝だ、と聞かれたから、一番上の、綺麗な花がついた枝がいいと答えた。
 猿が背から臼を下ろそうとする。それをおすみは押しとどめた。
「地面に臼を置くと餅に土のにおいが移る…担いだまま、登ってくれねえか」
 無茶苦茶なことだと、解っている。
 じっと見つめてくる目に耐え切れず俯いて、何を言っているんだと咎とがめられるのを待った。しかし、猿は、
「そうか…そうだな」
 そんな声を発した。そして大した間もなく、重たげに樹が揺れる音がする。
 恐る恐る見上げれば、猿が臼を担いだままするすると樹を登っていく。あまりにも素早いものだから、あっという間に姿が見えなくなってしまいそうだ。
「お前さんっ!」
 おすみが叫んだ。樹上から遠く、声が返ってくる。
「どうしたおすみ、ここらの枝でいいのかい」
 そのからかうような声を聞いて、おすみは姉の考えた策の成功を確信した。
「もっと、もっと一番上だ!」
 涙交じりの声で叫ぶと、了承を示す軽い声が返ってくる。
 樹の上の方で小さな影が枝を揺らす度、下品なほどの勢いで花びらが舞い落ちてくる。それを浴びながら、こみあげてくる感情を抑える。
 猿に重たいものを持たせて木に登らせればいい。落ちれば首を折って死ぬだろう。
 そんな不確かな計画、上手くいくはずがないと思っていた。だからこうして実行に移したのだ。
 人を殺した獣を村に解き放つ訳にはいかない。何としてでも、自分が猿を殺さなければいけない。
 その義務としてできるだけのことはやったのだと、思いたいだけだったのに。どうしてこう上手くいってしまうのだろう。
 そんな気持ちを抑えようと奥歯を噛みしめていたが、樹の枝をつかみ損ねた猿の姿がぐらりと揺れた時に思わず叫んでしまった。
「止めろ! 枝なんていらねえからっ! 降りてこい!」
 しかしもう高すぎて声が届かないのか、猿は止まらなかった。
 体勢を立て直しながら、また登っていく。ついに一番上に至り、細い枝の先を手折たおろうとする。
「もういいから! 降りろ! 降り…」
 言葉の途中で何かが折れたような軽い音がする。そうして、樹上から影が落ちてくるのを、おすみは天地がひっくりかえるような眩暈めまいとともに見ていた。
 水気を帯びた重い音がして、薄く色づいた花びらが敷かれた地面に鮮血が飛び散る。
 衝撃で紐が切れたらしい臼がごろりと転がって、その下から肉のはみ出た襤褸ぼろ布きれのようになった猿が現われた。
 おすみは吐きそうで吐ききれない想いを抱えたまま、ふらふらとその傍に膝をついた。腕一本動かせない体の重さを感じながら唸うなるような声で呟く。
…解ってただろ、お前さんを殺そうとしたことぐらい。何で」
「何でだと思う」
 言葉が返ってきて、まだ喋れるのか、と驚いた。
 肉の繊維を纏ったまま肩から突き出す骨が、どこからかも解らない程溢れておすみの手を濡らす血液が、確実な死を予感させるのに、猿はしっかりとした声を発している。
「ただ、おすみが殺すしかないと思ったのと同じくらい、死ぬしかないと思っただけなんだ。だって、これで…全てが丸く収まるだろう。化け猿が死んで、おすみは家族の許もとに戻れる訳だ」
 猿は左手を差し出してきた。
 握った枝には、見事に桜の花が咲き誇っている。それを振り払って地面に叩きつけて、おすみは怒鳴る。
「馬鹿を言うな。俺のためだなんて、そんな。勝手だ。本当に俺のためを思うなら、離縁した後一匹で死ねばよかったろう。わざわざ人が見ている前で死にやがって、この―」
「見ている前で、なんて温ぬるいもんじゃない。おすみが殺したんだよ」
 猿は笑っていた。
 仰向けの姿勢で、血にまみれた顔で。牙をうまく隠したまま、人のように穏やかに微笑んでいる。
「だって、ずるいじゃないか。儂はこんなに人に焦がれているのに。爺様を殺してあんなに苦しんだのに、人が儂を殺しても、畜生一匹殺しただけだとあっさり忘れてしまうんだろう。だが…おすみは。おすみは違うね。儂を殺して、それを忘れず一生悶もだえ苦しむだろう」
「もういい。喋るな」
「どうか家族の許に戻って幸せに暮らしておくれ。おすみには、人の幸せを掴んでほしいんだ。新しく婿むこでも貰って、桜が咲くたび儂の死に様を思い出しておくれ」
「煩うるさい。もう、口を利くな。死ぬ気があるならぺらぺら喋るな」
「嫁に来てくれたのがおすみで良かった」