猿婿【1】
【試し読み】日本ファンタジーノベル大賞2021大賞受賞作!『鯉姫婚姻譚』
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「日本ファンタジーノベル大賞2021」(選考委員:恩田陸さん、森見登美彦さん、ヤマザキマリさん)の大賞受賞作がついに刊行!
生きる理の違う美しき人魚と、半人前な青年が築いた愛と幸せの形とは――。
発売を記念し、一章分をまるごと試し読み公開します。
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一 猿婿
「ね、おたつね、孫一郎と夫婦になってあげようと思うの。嬉しいでしょう」
おたつはふちに腕をもたせ掛けたまま無表情に言い放ち、水中で長い尾鰭を見せびらかすように揺らしている。孫一郎はゆったりとした動きで池の近くの庭石に座りながら口を開いた。
「ううん、そりゃ嬉しいけどねえ。ちょいと歳が離れすぎていやしないかい。こう見えてあたしももう二十八だし」
「歳なんて関係ありやしないわ」
事も無げな様子のおたつは、上半身だけなら十をやっと越えたくらいの尋常な童女に見えるが、その腰骨から下は鯉のような尾鰭がつき、純白の鱗が並ぶ地に鮮やかな緋盤がいくつも浮かんでいる。孫一郎はため息を吐いた。
「でもねえ、人と鯉じゃあ夫婦にはなれないよ」
「どうして?」
おたつが首をかしげると、真っすぐな長い髪が水面を揺らす。そうしてできた波紋が広がっていくのを眺めながら、孫一郎は答えた。
「どうしてもさ。おたつはほら、立派な尾鰭があるだろう。そんな綺麗な尾鰭を持ったお嬢さんは鱗の一つも持ってないぼんくらと夫婦になろうなんて情けないことは思わないもんなんだよ。いずれ立派な鰓のついた若者と見合いでもさせてやるからそれまで待ちなさい」
「いやよ。孫一郎にする」
会って十日程しか経たないというのに懐かれたものである。夫婦というものがよくわかっていない節もあるが。
夫婦、夫婦か。孫一郎にだって、嫁を貰って遊んでばかりもいられなくなり、柄にもなく父の商売を真面目に手伝った頃があった。哀しいかな商才のなさを露呈させて店に大損害を出し、愛想をつかした妻が出ていく結果に終わっただけだったが。
膝の上に頬杖をつき、こめかみを指先で小さく叩く。折角お役御免になり気楽な若隠居となったのだから、苦い思い出を振り返るのは止めよう。父が他界して早々に優秀な弟が跡を継ぐことが決まったのだからもう何の心配もいらないのだ。自分にしては頑張った方だと思うし、ここからはせいぜい余生を楽しませて頂こう。
暖かな日差しの下、緩やかな風が庭の木々を揺らしている。薄く色づいた桜の花びらが孫一郎の目の前を舞い落ちていく。句でも詠むのに都合がよさそうな住処だ。囲碁仲間でもいれば、呑気なご隠居らしい穏やかな暮らしができるだろう。少々刺激に欠ける生活になりそうだが一銭の稼ぎもない半端者には贅沢すぎるくらいだ。当面の間は誰にも迷惑をかけず大人しく過ごそう、と思っていたのだけれど。孫一郎は欠伸を一つして、気の抜けた声で問いかけた。
「なんだってそう、急に夫婦だなんだと言い出したの」
「大八郎が言ってたのをね、思い出したの」
「おとっつぁんが? なんて」
「孫一郎を頼むって」
父にも困ったものだ。この屋敷を遺してくれたのはありがたいし、庭の池に人魚が棲んでいると遺言書のどこにも書いていなかったのもまあ良しとするが、気軽に息子の行く末を人魚に託すのはやめて頂きたかった。そもそも父は、どうして人魚などという本当に存在するかどうかも怪しい生き物を庭の池で飼いはじめてしまったのか。初めておたつを見た時は流石に信じられなくて気付かなかったことにしようかと思った。はからずもその人魚に話しかけられてしまったのでもう仕方がないが。
とにかく今更誰かと真剣に関係を持つなんて面倒でやっていられない。今後は深い繋がりなど持たずに適当に生きていこう、と本気で思っているのだ。夫婦などもう考えられない。