カカノムモノ

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 そういえばあの後、結局蓮華畑は見に行ったのだったか。
 すでに四年も前のことをふと思い出して、颯太は結露で濡れた保健室の窓に目を向けた。あれはちょうど今くらいの季節だったなと、水滴に滲む冬の空を仰ぐ。
「はい、できた」
 颯太の足元にしゃがみこんでいた保健医が、包帯を巻き終わった足首を柔らかく触る。
「ありがと、先生」
「どういたしまして。それにしても珍しいね、小野田おのだくんが怪我なんて」
 普段から活発に外遊びをするタイプの颯太は、友人に付き添って保健室を訪れることはあっても、自分が怪我人や病人になって訪れることはほとんどない。
「俺としたことが、めんぼくない」
 颯太の口調に、保健医はおかしそうに笑った。自覚はあまりないのだが、自分の口調は小学三年生にしては往々にして大人びているらしい。
「でも今度からは、痛いと思ったらすぐに来てね」
 年配の保健医は念を押すように言って、手当に使った道具を片付ける。
 時刻は午後二時半をまわっていた。四時間目の体育の授業で足首を痛めた自覚はあったが、五時間目が終わるころにはいよいよ痛くなり、保健室へ来ざるを得なくなってしまった。いつもなら今頃は学童へ行って、仲間たちと遊びに興じていたはずだったのだが。
「大丈夫だと思うけど、一応ちゃんと病院へ行ってレントゲンを撮ってね。お父さんには連絡しておいたから」
「え、秀史しゅうじ呼んだの?」
「すぐ来てくださるそうよ」
 まるで安心させるように言う保健医の背中に、颯太は小さく息を吐く。歩けないことはないのだし、父には知らせないでほしいと最初に頼んでおけばよかった。
「すみません、小野田の父です! 遅くなってしまって申し訳ありません!」
 それからいくらも経たないうちに、二十代半ばの優男が保健室の扉を引き開けた。よほど急いできたのか、コートの前も閉めず、息も乱れている。
「ああ、お待ちしていました」
「颯太、大丈夫なのか⁉」
 保健医への挨拶もそこそこに、秀史はソファに座っている颯太に駆け寄った。
「大げさだな。ただの捻挫だよ、たぶん。心配しすぎ」
「心配するに決まってるだろう。捻挫だって立派な怪我だ」
 右足首以外は元気そうな颯太を見て、秀史はようやく安堵の息を吐く。
「会社は? 早退したの?」
「したよ。病院にも行かないといけないし」
「ごめんな、迷惑かけて」
「何言ってるんだ」
 颯太の頭に手を置いて、秀史は苦笑する。五年目の営業職だが、できるだけ残業を免除してもらっている彼は、社内でも相当気をつかっているはずだ。そんな彼に、これ以上余計な気苦労は背負わせたくなかったのだが。
「息子がお世話になりました」
「いえいえ、お大事に。小野田くん、またね」
「うん、またね」
 保健医に挨拶をして、父子は保健室を出る。冷え込んだ廊下の冷気が、温まった頬にぶつかって、颯太は身震いした。
「とりあえず整形外科に行って診察を受けよう。そのあとでりんを迎えに行く。歩けそうか?」
 上履きをしっかりと履けずにつっかけて歩く颯太に、ランドセルを引き受けた秀史が、腕時計で時間を確認しつつ尋ねる。
「うん、大丈夫」
 颯太はいつもと同じ声で、頷いた。

 整形外科での診察はさほど時間はかからず、レントゲンの結果骨に異常はないということだった。
「ほらな? 大したことないって言ったろ?」
「怪我したことには変わりないんだから、しばらくは大人しくしてなさい」
 弟の倫を保育園に迎えに行く道すがらそんな会話をして、三人の家族はいつもより少し早い時間に自宅へ帰りついた。
 駅からバスで七分のところにある賃貸マンションは、小学校や保育園からは近いものの、秀史の会社へは一時間以上かかる。それでも彼は子どもたちの生活を優先して、引っ越そうとは言わない。実のところ、ここより駅に近くなると家賃が跳ね上がるらしいので、秀史の給与ではここがギリギリなのだということに、颯太は薄々勘づいていた。この世界は颯太が思う以上に、生きているだけで金がかかる。
「じゃあお父さんはごはん作るから、颯太たちは先にお風呂に入っちゃいなさい」
 秀史が食事を作る間、弟の世話を焼くのは颯太の役目だ。頼まれたわけではないのだが、各々のやれることをやっていたら自然とそういう役割になった。
「今日の晩ごはん何?」
「久々にオムライスにしようかなと」
 秀史の答えに、颯太は露骨に顔をしかめた。
「大丈夫かよ? 前に作ったとき散々だったろ?」
 ケチャップライスは焦げ、卵は破れ、もはや炒飯になり果てたものを思い出して、颯太は尋ねる。もともと秀史は料理の経験が浅く、卵を薄く焼くだけなら、おそらく颯太の方が上手い。
「大丈夫。会社の人にコツを聞いてきた」
 どこか自信に満ちた表情で答える秀史に一抹の不安を覚えつつ、颯太はレゴブロックで遊びに興じている弟と風呂に入ることにした。シャンプーが目に入るのを嫌がる弟を上手くなだめすかし、頭や体を洗ってやり、湯船の中で一緒に数を数え、体を拭き、保湿クリームを塗り、パジャマのボタンを留め、髪を乾かしてやるまでが颯太の仕事だ。服を脱ぐ際に湿布をはがした右足首は、保健室で見た時よりも少し腫れが引いているように見えた。
「ねえ、にいに、おなかすいた」
 湯船の中で、倫が無邪気に口にする。
「そうだな、俺もペコペコだ」
 そういえば今日は学童に行かなかった上、病院だのお迎えだのでバタバタしておやつを食べそびれていた。
「秀史がオムライス作るらしいから、楽しみにしてようぜ」
「おむらいす、たのしみ!」
 上気した頬で弟は笑う。つられるように、颯太も笑った。
 しかし、風呂から上がった二人が見たものは、やはり薄焼き卵の残骸が載った、無残なケチャップライスだった。
「ご期待に沿えず、めんぼくない…」
 食卓の前で、秀史が肩を落として頭を下げた。
「気にすんな。食えりゃ問題ない。な、倫?」
 颯太は弟用に取り分けたオムライスもどきの上に、ケチャップで花丸を書いてやる。それだけで倫は喜んで、いただきます! と一人で叫んだかと思うと、口いっぱいに焦げたケチャップライスを頬張った。
「倫が、オムライスはこういうものだと覚えてしまわないか心配だ…」
 秀史がぼそりと言って、颯太は笑う。
「まあいいじゃん。そん時はそん時だよ」
 励ますように言って、颯太は手を合わせる。
「いただきます」
 父子は声を合わせ、和やかに食事を始めた。