カカノムモノ

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 春永とホットケーキを平らげ、その後雨が上がるのを待って家に帰った颯太は、春永の家に立ち寄ったことも、祖父母に養子の話をされたことも、秀史には黙っていた。ただ祖父母と会っていたことだけは秀史もわかっているので、元気そうだったという当たり障りのない報告だけをしておいた。
 いつも通り、秀史が夕食を作っている間に倫と一緒に風呂に入り、夕食を食べたあとは、秀史が倫に歯磨きをさせて寝かしつけるので、その間に颯太は洗い物を済ませる。やらなくてかまわないと秀史は毎回言うが、倫と一緒に彼も寝てしまうことがあるので、やっておくに越したことはない。火を使う料理は、秀史が傍にいるときでないとやらせてもらえないが、洗い物は颯太が一人でもできる家事だった。
…危なかった、寝るところだった…」
 倫と寝室に入って十五分後、秀史が顔を擦りながら居間に戻ってくる。
「今日は早かったな」
 倫は赤ん坊のころからよく寝ぐずりを起こすので、しぶとい時には寝付くのに二時間ほどかかるときもある。その上夜泣きで目覚めることもあるので、寝つきが良い日でも安心はできなかった。
「昼間、公園で思い切り遊ばせたのがよかったのかも。おかげで俺もすごく眠いけど」
 居間を突っ切ってキッチンまでやって来た秀史は、颯太が最後の皿をすすいでいるのを見て、やや恨めしそうな顔をする。
「置いといていいんだよ。俺がやるんだから」
「フライパンはまだ洗ってない」
「やっておくよ。颯太は早く歯磨きしな」
「うん」
 颯太は踏み台を片付け、流し台の前を秀史に譲り、洗面所でいつも通り歯磨きをした。大人用の歯ブラシが一本と、子ども用の歯ブラシが二本並んでいる光景にも、ようやく慣れてきたところだった。
 ―春永の家の洗面台には、歯ブラシは一本しかないのだろうか。
 使い終わった歯ブラシを棚に戻して、颯太はふとそんなことを考えた。一人暮らしだというのだからそれが当たり前だとは思うが、隣に父親や兄の歯ブラシが並ぶことはなかったのだろうか。そういう選択肢は、存在しなかったのか。
「秀史」
 寝室に向かう前に、颯太はフライパンを洗い終わった秀史の背中に呼びかけた。
「秀史は、なんであやこと結婚したの?」
「えっ」
 唐突な問いに、秀史はあからさまに狼狽うろたえる。
「ど、どうしたんだいきなり」
「ちょっと気になったから」
「なんでって言われても…」
 秀史はやや耳を赤くしながら、言葉を探しているようだった。そしてやや間があって、砂の中から宝石を拾い上げるように口にする。
…好きだったのはもちろんだけど、絢子さんは、俺が見失ってた自分自身を、取り戻させてくれた人だからだよ」
 父と兄は存命だが、別々に暮らしていると言った春永の顔が、颯太の脳裏をかすめた。
 異なる苗字を持った、もうひとつの家族。
「この人と、ずっと一緒にいたいと思ったんだ」
 はにかんだ彼の言葉が、柔らかい刃物となって颯太の胸を刺した。
 その母は、絢子は、もういない。いないのだ。
 それでも自分は、ここにいていいのか。
 ここにいることが正しいのか。
…そっか」
 颯太は口元に笑みの形を浮かべ、じゃあおやすみ、と告げて寝室へきびすを返した。
「颯太」
 その背中に、秀史がふと思い出したように呼びかける。
「そろそろちゃんと養子縁組をして、苗字を揃えないか?」
「え…」
 あまりにも唐突に、そしてさらりと放たれた言葉に、颯太は無意識に息を詰めた。
「前から気になってたんだ。再来月の一周忌を終えたら、そろそろ考えてもいいんじゃないかって」
 目の前の男が、急に得体のしれないものに見えて、颯太は言葉を見失った。
 苗字を揃える、それはつまり、小野田という姓が消えてしまうということだ。
 母と同じだった颯太の姓が、変わってしまうということだ。
…中学に上がるまで、待つっていう話だったろ?」
 母が秀史と再婚すると決めた時、手続きの問題もあったことから、そういう約束になったと聞いていた。母の戸籍上の姓は変わっていたが、普段は便宜上小野田を名乗っており、颯太もそれでなんの不満もなかった。
「あの時と今では、事情が違うから…」
 秀史は、痛みを堪えるような顔をする。
「事情って―」
「にいに」
 不意に後ろから細い声で呼びかけられて、颯太は振り返る。
「にいに、どうしたの?」
 起きてきた倫が、眠そうに目を擦っていた。
「ごめん、倫。なんでもないよ」
 弟の頭を撫でて、颯太は布団へと促す。
「颯太、またちゃんと話をしよう」
 寝室へと引き上げる颯太に、秀史がそう声をかけた。颯太は頷いて、後ろ手に引き戸を閉める。
 倫に布団をかけ、自分も布団に潜り込んだが、当分眠れそうになかった。
 母の遺したスマートホンを布団の中に引き入れて、颯太は音声メモを起動させる。
 あの頃の切り取られた時間が、今日も繰り返し再生した。