わたし、定時で帰ります。

わたし、定時で帰ります。

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 えー内緒で行くんだ、とBluetoothを通して囁いてきたのは、Siriです。晃太郎とのつきあいがすでに六年に及ぶ彼女(たまに彼にもなるのですが)と私とは、ペアリングされたことでチームになりました。いわば同僚のようなもの。彼女はたぶん暇なのでしょう。私にさっきから晃太郎の情報を投げてよこしてきます。
 さ、こんな解説をしている間にも、晃太郎はドアを開け、エレベーターに乗って降り、夕方の街へ出ていきます。歩く速さは時速八キロ(これはランニングアプリが計測しています)。心拍はやや高止まりというところ。かなり緊張しているようです。
 待ち合わせた相手は女の人? と尋ねると、すぐわかるよ、とSiriは答えました。

 待ち合わせ場所の隠れ家風ダイニングバーは、マンションから二キロの距離。晃太郎の勤務先が入っている高層ビルの裏にありました。食べログで星四つ。デートに最適。薄暗い店内にはアンティーク風のソファが置かれ、若いカップルが身を寄せています。
 奥にある半個室までたどり着いた晃太郎は、自分を呼び出した人物を見つけたようです。鋭いまなざしをそっちへ向けると「は?」と怒った声で言いました。
「二人きりって言ってなかった?」
「あのメッセージ、信じたんですか」
 冷ややかに応えたのは来栖泰斗くるすたいと。Siriによれば男性だそうです。なんだ、そうなんだ。新製品の私にはメッセージの宛名だけではそこまで分かりませんでした。
 モカ色のサマージャケットの下に卵色のTシャツを着ている彼は晃太郎の部下だそうです。体に余計な力が入っていないところが今時の若者って感じ。
 来栖を目の前にすると、晃太郎は緊張するようです。心拍がさらに上がっています。
「だって」と言う声は上ずっています。「来栖が休みの日に俺に会いたいなんて今までなかったし、しかも結衣に内緒でなんて、あいつにも言えないような相談なのかなって思うだろ。だから急いで来たのに、何だよ、このメンバーは! 悪ふざけしてるなら帰る」
「まあまあ、コーニー、一杯くらい飲んでったら」
 そう声をかけたのは、来栖の隣に座る若者でした。
 彼は種田しゅう。晃太郎の九歳下の弟で、兄のことをコーニーと呼ぶのだそうです。―以下、Siriから情報提供を得て、人物を紹介していきますね。
「いや、飲まないし、てか、何で―柊が来栖と一緒にいるの?」
「結衣さんから聞いてない? 泰斗とは最近よく遊んでるんだよ」
「泰斗って」そんなふうに呼ぶ仲なのか、と言いたそうな顔を晃太郎はしています。
「あ、でも、今日は泰斗から頼まれた件で呼ばれてて」
 柊は大きめの白いTシャツから伸びた細い手でメニューを開き、兄に差し出しています。なんとなく晃太郎に似ていますが、体育会系の兄より線が細いです。
「コーニー、ハイネケン好きだよね。注文しちゃうよ。いいね?」
 弟に屈託なく言われると、晃太郎はしぶしぶといった顔で彼らの向かいのソファに座りました。柊はこの間まで兄とは対話しない姿勢を貫いていたそうで、その期間は実に二年間だそうです。その弟に久しぶりに笑顔を向けられては帰ると言えなかったのでしょう。
「二人の仲がいいのはわかった」
 そう言ってから晃太郎は、奥のソファにだらりと座っている人物を指します。
「で、あの人は? あの人は何でここにいるの?」
「俺も、泰斗に呼ばれて」
 白シャツに白パンツを合わせ、首に金色のチェーンを巻いた人物がそう答えると、晃太郎は「いやいやいやいや」と、その人物と来栖の間に指で線を描きました。
「そことそこには繋がりないじゃん。会社で話してるとことか見たことないし、関係性ゼロじゃないですか。何であんたまで泰斗呼びしてるんですか」
 その人物とは石黒良久いしぐろよしひさ。管理部のゼネラルマネジャー。晃太郎よりも五歳年下でありながら、偉いポジションにいる人なのだそうです。全然そんな風には見えないのですけど。