猿と暮らし始めて数日が経った。
その日も猿は斧を軽々と振り上げ、木に向かって振り下ろしていた。
「いつまでも落ち込んでいるわけにいかんから爺様のように木を切って、村に売りに行こうと思ったんだが」
「山から化け猿が下りてきたと、騒ぎになってしまったってことか」
おすみは猿が切った木の枝を鉈で削ぎながら、そう返した。猿は尚も、楔形に幹を穿っていく。
「えらく悲しかったが……、いいこともあるもんだなあ、人の嫁を貰えるなんて」
猿は照れ臭そうに頭をかきながら、作業を続ける。片手だというのにまったく危なげない様子なのが、かえって怖かった。
ドッ、ドッ、と音を立てながら、木が削られていく。おすみはそれを見ながら、この斧を使って猿を殺せないかと考えた。
止めておこう。慣れない重い斧を十分に振り回すことなどできはしない。今手に持っている鉈も、少し扱いには慣れてきたが、おすみには大きすぎて使いづらい。
「おすみ、危ないからもうちょっと離れた方がええぞ」
猿がそう言ったと同時に、一抱えもありそうな木が、めきめきと音を立てて倒れた。その衝撃に地面が揺れる。
その後も猿は、何度も斧を振るい、次々と木を切り倒していく。そして時折おすみに話しかけた。
「なあ、儂も毛を刈ったら人と同じように見えないだろうか」
「いきなり何を言うんだ」
おすみは呆れたが、猿は尚も続ける。
「着るものも儂の大きさに合わせて仕立て直せば体は隠せると思うんだが」
「そんなことしてどうするんだ」
「木を売りに行くときに怖がられては困るからな。人に紛れられれば、それが一番だろう」
無理に決まっている。大猿が毛を刈ったところで、毛を刈った大猿にしか見えないだろう。
「木を麓まで運んでくれれば、売るのはおれがやる」
「いや、おすみがそんなことせんでも」
「夫婦ってのは助けあうものだろう。それに、物の価値を知らん猿殿では安く買いたたかれてしまいになるぞ」
「そうだろうか……そうだ、おすみ。又吉と呼んでくれと言ったろう。せっかく爺様の名も貰ったんだ」
「その爺様ってのは、よほど変わった人だったんだろうな」
「そうか? まあ確かに、おすみの父様よりは呑気な様子だったな。病気をするまでは足も腰も丈夫な人で……そういえば、おすみの父様は腰が悪いんだなあ、種を蒔くのにあんなに苦労するんじゃ可哀想だ。一緒に暮らせたら手伝ってやれるんだが」
猿はこの数日で、何度もこんなことを提案してきた。この猿は人が好きで、一緒に暮らしたくて、人から嫁を貰ったのもそのためなのだろう。
だが無理だ。おすみは村の人々の並大抵でない怯えようを思い出す。
おすみが猿の嫁になるというのは本当か、と噂を確かめに来て、それが真実だと知った村人の同情と安堵の表情は忘れられない。
娘を一人差し出さねば化け物が村を襲うかもしれないというのなら、それが自分の娘でないことが望ましい。それだけのことではあるのだけれど。
「そろそろ休んだらどうだ」
おすみは鉈を置くと、そう声をかけて、握り飯をいれた包みをかざした。
喜んで受け取った猿は、できたばかりの切り株に腰かける。そして、麦飯に齧りついた。
「おすみの作った飯はうまいなあ」
「ただの握り飯だ」
大仰に喜ぶ猿にそう返して、おすみは自分も切り株に座った。おすみも食うか、と勧められて、断った。
例えばあの握り飯に、毒が仕込んであったらどうだろう。そう考えて、またすぐに否定した。
おすみには毒の知識がない。いくつか知っている茸の毒はどれも遅れて効いてくるものだから、早い段階で気づかれればおすみも道連れにされてしまう恐れがある。
猿が最後の握り飯を食べ終えた時、おすみは、一番簡単で確実な方法で殺そうと決めた。
(つづく)