額装師の祈り 奥野夏樹のデザインノート

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 メアリさんにとっての過去が、本だったというのだろうか。その本は、なつかしい思い出のこもった本なのか。けれど、思い出の品が本ばかりだというのも不思議だ。いつの間にかつぐみは、メアリさんのことが気になって、ついつい考えてしまっている。
 身元のわからない行旅死亡人。いつも持ち歩いていたキャリーバッグの中身は、本だというけれど、どういうわけか空っぽだ。それに、ミニブタを拾って飼っていたとか、メアリさんは謎だらけだ。
 つぐみにとって、長期滞在のお客さんという認識しかなかった人が、どんどんミステリアスになっていく。けれどもともと、メアリさんは不思議な人だった。仕事をしている様子はなかったのに、お金に困っているふうではなかった。これといった名所もない街の、小さなビジネスホテルをどうして気に入ったのか、十年以上も暮らしていた。晴れの日も雨の日も、ピンクの服に麦わら帽子、どこへ行くにも古びたキャリーバッグを引きずっていた。
 彼女の存在は、つぐみにとっては日常の一部で、その不思議さにこれまで気づいていなかった。彼女がどんなふうに生きてきて、何を考えながら日々を過ごしていたのか、想像したこともなかったが、今ごろになって、もっとメアリさんと話したかったような気がしている。
 ずっと前に、まだつぐみが中学生くらいだったころ、メアリさんが言ったことがある。ありふれた日常に、奇跡はたくさん紛れているのだと。おぼえているくらいに印象的だったけれど、つぐみはいまだに、実感したことはない。
 交差点で信号待ちをしながら、ふと向かい側に目をやると、コンビニから出てくる人影があった。高校を出て以来会っていない同級生だ。すぐにわかったのは、仲がよかったからだけれど、会いたくない相手だったから、つぐみは目をそらして、彼女と反対方向に歩き出す。遠回りだけれど、別の道を通って家へ帰ることにした。
 彼女が急によそよそしくなったのは、高校三年の夏休みからだった。ケンカをしたわけでもないのに、わけがわからなかった。何か気に障ることをしたのかと問いかけても、べつに、と答えるだけで、状況は変わらず、そのまま卒業したのだ。
 あとで人づてにきいたところによると、彼女とは進路が違ってしまったことが原因だったようだ。都市部の同じ大学へ行こうと話していて、つぐみはそのつもりで勉強もがんばっていたが、彼女は家の事情で進学をあきらめることになったという。
 でも、そういうことをつぐみには言えなかったのだ。進路を変えざるを得なかったら、友達ではいられないのだろうか。つぐみに何かできるわけではなかったけれど、遠ざけたりせずに話してほしかった。
 もし今声をかけたら、何もなかったようにふつうに話ができたかもしれないけれど、離れてしまった時間は埋められない。
 ほんの少しの変化で、何もかも変わってしまう。変わらないものなんてない。
 沙也佳さやかのことが、どうしても思い浮かぶ。これまで彼女とは、同じように不安定な仕事をしながら、同じように節約し、同じように着回せる服を買って、貸し借りもしていた。立場が似ていて、だからお互いを理解し合えた。でもこれからは、何もかもが違ってしまう。それでも沙也佳とは友達でいられるのか、うっすらとした疑問が急にくっきりと浮かびあがってきて、つぐみはただ、振り払うように足を速めた。
「おーい、つぐみ、どこ行くんだ?」
 自転車が背後から近づいてくる。立ち止まったつぐみのそばで、自転車も止まる。兄の景太が、不思議そうに首を傾げる。一応は副社長だから、きちんとしたスーツ姿なのに、自転車を愛用している。
「メアリさんのキャリーバッグを届けて、帰るところ」
「市役所に? おれ、さっきまでいたのに」
「キャリーは皆川蒼って人に預けた。お兄ちゃんの同級生だって? その人、メアリさんのことよく知ってるみたいだったから」
 景太は、ああ、とつぶやき、微妙に眉をひそめた。垂れ目が少しだけ厳しくなる。絶対に悪い人じゃない雰囲気、と蒼は言ったが、景太は穏やかそうに見えて、じつはわりと冷静でせっかちだ。しかしつぐみは、たぶん見かけ通りの、おっとりのんびりした性格だから、景太にはときどき眉をひそめられる。
「よく会うの?」
「いや、たまに顔会わせるけど、込み入った話はしないし」
 自転車を降りて、景太はつぐみと並んで歩きだす。
「ふうん、うちへ遊びに来たことあるって言ってて、わたしのこともおぼえてたけど」
「うちは裏庭が広くて、クラスメイトのたまり場みたいになってたからな。でもあいつ、ずいぶん変わったよ。子供のころは明るくておもしろいやつだったけど、今はなんか、だらしない感じだし、毎日ぶらぶらしてるみたいだ」
「そうなの?」
「いつもジャージで徘徊してて、前に職質受けてるのを見たよ。あの家、おじいさんの家だろ? いつこっちへ来たのかもわからないくらい、長いこと引きこもってたって噂だ。あんまり近づかないほうがいいぞ」
 つぐみが感じた印象と違いすぎて、混乱する。
「えっ、でも、ぶっきらぼうだけど悪い人には感じなかったよ」
「おまえは警戒心がなさ過ぎるんだよ。前に、何人か同級生のところに蒼から連絡があって、金の無心をされたらしいし、切羽詰まってるみたいで、やばいことやってるんじゃないかって噂にもなってたんだ。ちょっとだけ知り合いってのはやっかいだよ。気をつけないとつけ込まれるだけだ」
 かつては友達だったとしても、景太と蒼は、お互いにもう、重なるところがなくなってしまったのだろうか。一から知り合うよりも、たぶん昔の関係を取り戻すほうが難しい。
「それはともかく…、皆川さんは、メアリさんとは本当に親しかったんでしょ?」
「ああ、メアリさんはドリトルさんって呼んでたらしいけど」
 それを聞いてほっとした。ムシャムシャがメアリさんのミニブタだというのが間違いないなら、メアリさんのキャリーバッグを預けたのも間違っていないのだ。
「ドリトルさんかあ。獣医さんだからかな」
「え? あいつ獣医なの? おじいさんの動物病院、やってないよな?」
 景太も知らなかったようだ。そういえば、中に誰もいなかったし、つぐみがいる間に患畜が来る様子もなかった。
「うん、だけど獣医だって」
「ホントかな。ドリトルさんって呼ぶのは獣医とは関係ないって、メアリさんに聞いたことあるけど」
 おじいさんのだという動物病院を継いではいなくても、獣医の資格を持っているのだろうとつぐみは思う。ムシャムシャは健康そうだったし、大きくなったミニブタを何の知識もなく飼うのは難しいだろう。