【試し読み】谷瑞恵『小公女たちのしあわせレシピ』第一話「奇跡のぶどうパン」③

谷瑞恵『小公女たちのしあわせレシピ』刊行記念特集

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イラスト miii
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 駅前のカフェに入っていくと、いつになく清楚なワンピースを着た沙也佳さやかが手を振った。
「前につぐみの実家へ遊びに行ったときは、このカフェなかったよね」
 ふだんはデニムにニットと気取らない格好が多いのに、今日は胸元にリボンがついている。
「うん、最近できたんだって。駅前の雰囲気、少しにぎやかになったでしょ」
 沙也佳は、彼の実家から帰る途中に寄ったのだと、早口に言った。彼は明日から仕事なので、実家の近くの駅で別れたらしい。
「どうだったの? 彼の実家は」
 その話がしたかったのだろうと思ったから、つぐみは切り出す。
「うん、ご両親には前にも会ってたから、そんなに緊張しなかったけど、お祖父じいさんとお祖母ばあさんに会って、老舗の立派な家だったからちょっと緊張したな」
「老舗の、和菓子屋さんだっけ」
「彼のお兄さんが継いでるから、わたしたちは結婚しても家業とは関係ないんだけど、やっぱ重みを感じるよ」
「歓迎してくれてるんでしょ? 大丈夫だよ」
「まあね、ご両親、いい人だし、わたしのことも気に入ってくれてて。だけどほら、彼はお母さんと仲がいいみたいで、いずれは近くに住んでとか、孫の顔がみたいとかどうとか、わりと言うのよ」
「そっか。でも、将来のことなんてわからないし、案外近くに住みたくなるかもしれないよ」
 しかし沙也佳がここまで来て話したかったのは、そんなことではなかったのだろう。
「結婚すると、いろんなことが変わっちゃうんだね」
 とため息をつく。変わりたい、と沙也佳はいつも言っていた。代わり映えのしない毎日がいやで、将来も不安だから、早く結婚したいと思っていたはずだ。
「変わるけど、いいほうに変わるんだから」
「そう思ってたけど、そうとも限らないのかなって。つぐみとふたりで旅行、行けなくなるし」
 結婚したって、友達と旅行くらいできるのかもしれない。でも、沙也佳は彼と遠くに行ってしまうし、彼の仕事は日曜祝日が休みではない。沙也佳もそれに合わせて、新しい土地でバイトをさがすという。いつかまた行こう、なんて、実現しそうにないとわかっていたから言えなかった。
「今の仕事、派遣だし、そんなに働きたいわけでもないし、早く結婚したかったけど、知らない土地へ行くことになるなんて想定外」
「住めば都っていうじゃない」
「彼しか話す人いないところで、耐えられるかな」
「沙也佳ならすぐに友達できるって」
「今さら新しい生活に馴染なじむのって、難しそうで」
「まあ、新しいことって、たしかに、年々ハードル高くなるよね」
 二十代なら、転職もあっさり行動に移せたけど、今はもう、契約社員でも会社にしがみつくしかない。新しい仕事なんてできそうにない。
「つぐみは? 今の仕事を続けるの? 留学したいって言ってたじゃない?」
「それね、お金も貯まらないし、会社やめたりしたら、もうあとがなさそうだし」
 それだけでなく、かつての意欲が薄れているのも確かだ。努力すれば夢が叶うわけじゃないと、悟ってしまったからだろうか。
「だけど、旅行はいつかまた行きたいな。沙也佳と行ったイギリス、ホントに楽しかった」
 これからのことよりも、過去がキラキラして見えてしまう。それでも、ネガティブになるよりいいと、沙也佳も思ったのかもしれない。つぐみの話題に乗って微笑んだ。
「うん、あのとき、めちゃくちゃ節約旅行だったけど楽しかったー」