【試し読み】谷瑞恵『小公女たちのしあわせレシピ』第一話「奇跡のぶどうパン」①

谷瑞恵『小公女たちのしあわせレシピ』刊行記念特集

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イラスト miii
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 メアリさんが亡くなったらしい。
 電話口で母親の話を聞きながら、つぐみはどう受け止めるべきか戸惑っていた。メアリさんはいつも、白髪交じりのグレーヘアに、つばの広い麦わら帽子をかぶり、ピンクの服を着ていた。どちらかというと物静かで、しかし愛想が悪いわけではなく、顔を合わせればにこやかに話しかけてくれた。一重の目を糸のように細めると、ふっくらした頬に赤みが差す。言葉遣いは丁寧で、物腰はやわらかく、たぶん、メアリさんを嫌う人などいなかっただろう。
 けれど、彼女はいつでもひとりだった。顔見知り程度の人と言葉を交わすことはあったが、親しい人はいなかったのではないだろうか。つぐみは、メアリさんがにぎやかな場所にいるのを見たことがない。
 母は、メアリさんの死を悲しんでいる。突然すぎて今も信じられないと、いい人だったと涙声になる。宿泊費はきちんと払ってくれて、部屋もきれいに使ってくれた。毎日のように顔を合わせていれば、家族みたいにも感じていただろう。でも、必要以上に悲しまないようにもしている。つきあいは長いが、彼女は身内ではなく、つぐみの家が経営しているホテルのお客さんだ。メアリ、という名前もたぶん、本名ではない。少なくとも彼女は、異国を感じさせる顔立ちではなかった。そして母もつぐみも、メアリさんのことは何も知らない。
 だから、メアリさんの話はそれで終わりだ。しんみりした間を置いて、母は話を変える。
「それでつぐみ、今度の三連休に帰ってこれない?」
 電話の本題はこちらだろう。
「春分の日? べつに帰れるけど」
「家のリフォームをするから、つぐみの部屋のもの、それまでには片付けてほしいの」
「リフォームって、どうしてまた?」
景太けいた千枝ちえさんの夫婦と、同居することになったのよ。あの子たちにこれからホテルの経営をまかせていくわけだし、二世帯住宅にすれば便利じゃない?」
 つぐみの兄、野花のはな景太は、“ホテルのはな”の従業員の女性と、去年結婚した。つぐみの家は、家族経営のビジネスホテルで、祖父がはじめたホテルを祖母が、そして両親が、細々と続けてきたが、いずれ兄夫婦に受け継がれるだろう。
 三階建ての小さなホテルで、その裏手にあるごくふつうの一軒家が、つぐみが高校を出るまで暮らした家だ。二世帯住宅になるということは、今は近くに部屋を借りている兄夫婦が、そこで暮らすということだ。両親と、兄夫婦の家になるのだ。
「え、じゃあわたしの部屋は?」
 突然のことで、口に出てしまう。
「いるの? 帰省したときは空いてる部屋で寝ればいいし。もう独立して十年以上になるんだから、あなたもそろそろ、結婚のこと考えたら?」
 考えてできるものなら苦労はしない。とりあえず、連休には帰ると返事をし、つぐみは電話を切る。結婚の兆しがないとしても、いざとなったら実家を頼ろうなんて甘い考えは捨てろということだ。最近、実家に戻ることもちらりと頭をよぎったりしていたところだったから、はっきりと釘を刺されたような気がした。
 大学へ入った年に、つぐみは家を出て一人暮らしを始めた。都会で暮らしてみたかったし、自由を満喫したかった。それから就職し、転職し、今のところ実家からギリギリ通勤圏内の、県をまたいだ政令指定都市で働いているものの、帰るのは年に数回といったところだ。だったら、部屋を明け渡したってどうってことはないと、母は考えたのだろう。
 つぐみが働いているのは、それなりに名の通った菓子パンメーカーだが、契約社員だ。正社員だと親は思っていることだろうが、そろそろ更新の時期が迫っている。噂では、三十を超えると雇い止めになりやすいらしいし、つぐみは今年で三十三だ。転職は年々難しくなっていく。