第一章 画面に映るあの子の現在【1】

君と漕ぐ5

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プロローグ

イラスト/おとないちあき
イラスト/おとないちあき

 雨が降っていた。
 水上にいると、雨粒が水面を打つ音がよく聞こえる。ポツポツ、ザアザア。そのリズムには緩急があり、心地よい時もあれば不快な時もあった。うねる水面に合わせ、カヌーが大きく揺れる。真っ赤なカヌーが、真っ黒な水面を切り裂くようにして進んでいた。
 額に貼りつく前髪を、蘭子らんこは親指を使って拭う。雨天時の練習は危険だと言うが、荒れた環境に慣れるに越したことはない。そもそも、カヌーとは自然の中で行うものだ。
 フラットウォーターのカヌースプリントと違い、ワイルドウォーターのスラロームは激流の中でぎ進む。蘭子も以前、海外遠征中にスラロームの練習をしたことがあったが、スリリングで楽しかった。スプリントのトップ選手の中には、トレーニングとしてワイルドウォーター種目を取り入れている人間もいる。
「蘭子せんぱーい。そろそろ撤収ですー!」
 雨音に紛れて、蘭子を呼ぶ声が聞こえて来た。パドルを動かす手を止めて顔を上げると、一つ下の後輩である華恵はなえがこちらに向かって手を振っている。河川敷に立つ彼女は、黄色のレインコートを着ていた。落ちる雨が、その表面で弾けている。
「もう撤退? 練習時間なら、あと何分か残ってるやろ」
「それが…コーチが、先輩に話があるみたいで」
「話?」
 水量の多くなった川を見つめ、蘭子は肩をすくめた。夕方だというのに雨雲のせいで日差しはほとんどない。五月ということもあり、暑くはない。ラッシュガードを着ていても少し肌寒いぐらいだ。
「練習終わってからじゃあかんの?」
「なんでも取材の申し込みがあったらしくて」
「取材ぃ? まーた新聞か? ネット記事? それともテレビ? 相変わらず見出しは『孤高の女王』なんちゃうやろねぇ。もっと天才美少女とか書いてくれてもええんやけど」
 世界選手権に出場したあたりから、マスコミの取材を受けることも増えて来た。
 蘭子の実家は大阪で、両親の出身も共に関西だ。母は京都で、父は滋賀。カヌーの指導を受けるために東京の蛇崩じゃくずれ学園に行きたいと言った時、祖父母はとても寂しがった。それでも上京を許してくれた両親には感謝している。海外遠征のお金だって出してくれた、寮生活も賛成してくれた。
 新聞やテレビで蘭子のことが取り上げられると、大阪時代の友人たちがSNSで「見たよ」と報告をくれることもある。大会の前にはSNSは応援のメッセージでいっぱいになるし、母や父はスポンサーを集めるために尽力してくれている。
 多くの人間に支えられ、恵まれた環境の中を生きている。その自覚があるからこそ、蘭子は人一倍、アスリートとしての自覚が強い。
 結果を出すこと。それが、応援してくれている人々への一番の恩返しになるはずだ。
…ま、知らんけど」
 後輩に聞かれることのないよう、付け足しの言葉を独りちる。パドルを器用に操作し、蘭子は浮桟橋の近くへ艇をつけた。パドルで艇を軽く押さえ、そのままゆっくりと浮桟橋へと身を移すと、一瞬だけ浮遊感に襲われた。カヌーに何時間も乗っていると、揺れの感覚がしばらく消えない。