猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

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「相変わらずですね」杉原が苦笑する。「むしろ前より開き直りがひどい」
「行こう、センポくん」
 杉原を促し、社を出た。
 まだ午後の早い時間である。日差しが強く、すれ違う婦人の中には日傘を差している人もいる。電車に乗って、守口もりぐちの家を目指す。昼過ぎなので、車両は空いていた。
「平井さん、ついに小説を世に出せたんですね」
 隣り合って座ると、杉原は、突然そんなことを言ってきた。
「なんで知っているんだ?」
「それを知ったから、平井さんの居場所がわかったんです」
 杉原が研修のために満州から帰国したのは三月のことだそうだ。それから五か月たった八月の末、とある出版社の大衆雑誌の編集部が、これからの日本を担う人材を取材したいと外務省に申し入れてきたのだという。何人かの新人書記生の中から省が推薦したのが、杉原だった。稀有なロシア語の才能という珍しさが注目されたのだった。
「三人の記者に囲まれまして、生い立ちや、外務省を志望した動機なんかを聴取されたんですが、僕が早稲田大学に通っていたことを知るや、『早稲田時代の友人で、思い出深い人はいますか』という質問が飛んできたのです。僕はとっさに、探偵小説を書きたいという先輩がいました―僕はそう答えました」
「待て待て。私と君とは同時に早稲田に通ってはいないぞ。たまたま三朝庵さんちょうあんで相席になっただけだ」
「三朝庵で相席になったってことは、先輩と後輩ってことですよ」
 杉原は言い返したあとで、照れ笑いをした。
「許してください。父の反対を押し切って早稲田に入った僕は仕送りをもらえず、アルバイトに明け暮れていたんです。そのうえ、運命の新聞公告に出合ったために一年ちょっとで退学してしまいました。早稲田に友人などいないんですよ。でも、そんなの恰好がつかないじゃないですか」
「ずいぶんと体裁を気にするんだな」
「僕も自分で意外でした。しかしとにかくそう答えると、記者の一人がおっしゃったんです。知り合いの森下雨村という男が探偵小説の雑誌を作っているが、そこに早稲田出身の作家が寄稿しているぞ―とね。なんでも森下さんはその作家をとても買っているということでした。気になった僕は、その記者さんを通じて、一冊手に入れたのです」
 と杉原は、風呂敷包みの中に手を入れると、一冊の雑誌を取り出した。
「それは!」
 太郎は目を見張る。「新青年」の大正十二年四月春季増大号―『二銭銅貨』が掲載された号であった。
「奇想天外な暗号と、それだけにとどまらない物語のひね…というのでしょうか。小説なんて読まない僕にも面白い作品でした。でも何より僕に確信を与えてくれたのは、この筆名です」
 雑誌を開き、その筆名を杉原は示す。
「江戸川乱歩。えどがわ、らんぽ。この響きを見たときに浅草の賑やかな鳴り物と音楽が頭の中によみがえりましたよ。お化け屋敷の窓から顔を出していた、オランウータンの人形。あれのもとになった作品を書いたのはエドガー・アラン・ポーという作家だと、平井さん、教えてくれましたよね」
 杉原は休日を利用し、「新青年」の編集部を訪ねたらしい。
「事情を話すと森下さんは快く受け入れてくれ、江戸川乱歩という作家の素性を教えてくれました。僕の睨んだ通り、本名は平井太郎。大阪の新聞社に勤めているというのはまったくの予想外でしたけどね」
「まいったな」
 太郎は帽子を上げ、ハンカチで汗を拭く。
「まるで君のほうが探偵じゃないか。大阪に来るなら前もって知らせてくれればいいものを」
「驚かせたかったんですよ」
「だからそれが探偵小説のやり口だというのだ。…森下さんにまで、俺より先に会ってしまうなんて」
「はい?」
「私は今まで四作『新青年』に載せてもらっているが、原稿と手紙のやりとりだけで、一度も森下さん本人に会ったことはないんだ」
 今度は杉原が驚く番だった。
「それは、なんというか…すみません」
「謝ることじゃないさ。しかし、なんだな。見上げた行動力だよ」
 何か今自分は、重要なことを言ったのではないか。太郎はそんなことを思って杉原を見る。切れ長の目に、シャンとした背筋。半そでのシャツがきりりとした表情をさらにまじめに見せている。
 …やっぱりダメだ、と思う。
 行動力は名探偵にとって必要な要素だろう。しかし、杉原は出世しすぎている。外交官などという大層な仕事ではないのだ、探偵は。器量のよさ、周囲から尊敬される雰囲気というのは必要であろう。だがそれは、社会的地位に起因するものではない。わずかな証拠や人の言動から、常人が考え付かないような推理を組み立て、意外な真相を浮かび上がらせる…その魅力が背中から滲み出るような人物像でなければ。
…そんな人間が、現実にいるものかね」
「はい?」
 杉原が不思議そうに太郎のほうに顔を向ける。頭の中のことが漏れてしまったようだった。なんでもない、とごまかした。
 それから十五分後、二人は家に着いた。
「まあ! 珍しいお客さんですね!」
 千畝の顔を見るなり、隆子は両手を口に当てた。病気がちの父親も出てきて、わが息子が珍しく客を連れてきたと喜ぶ。三歳の隆太郎りゅうたろうも拙い言葉で「こんじちは」と言う。杉原の歓迎により、早引けについて指摘されないことを、太郎は内心ほくそえんだ。
 まだ昼過ぎなので食事というわけにもいかず、二人は居間で、座卓を挟んで向かい合う。
「杉原さん、ロシアでの生活はどうです? やっぱり日本よりだいぶ寒いのでしょう?」
「隆子。今はもうソビエト連邦というのだ」
 正確にはもう少し長い名前だったが、新聞社に勤めていながらその正式名称は覚えていない。とにかく、「ロシア」という呼称を使うと世間知らずになるのだ。
「ああ、言い忘れていました。僕はソビエトには行っていないのです」
「なんだって?」
「革命政府の実態がつかめないし、そもそも留学生を受け入れてくれる体制が整っているかもわからない。僕たちはハルビンに行かされたのです」
 亡命ロシア人が多く、学校もあるので、ロシア語を学ぶには不自由しないのです、と杉原は言った。
「そうだったのか。満州にロシア人がね」
「はい。しかし、帰国する前の一年間は、さらにソビエトに近い満州里というところへ行かされました。そこはほとんど気候もロシアと一緒で、すっかりロシア人と寝食を共にしましたよ」
「ロシア語もしっかりしゃべれるのだろうね」
「日常会話はもちろん、国際会議でも通用する会話も学んでいます。まだ実践はできていませんが」
「立派なものだね」
 感心する太郎の横で隆子が怪訝そうな顔をしている。
「あなた、堂島どうじまからここまで一緒に帰ってきたんですよね? 相応の時間があったはずなのに、どうしてこういう重要な話を聞いていないんです?」
「それは…」
 名探偵のことを考えていたのだ、とは言い出せない。
「こんじちゃ。こち、おいでー」
 隆太郎が杉原に向かっていく。足がもつれて、倒れそうになる隆太郎を「おっと!」と杉原は支えた。
「隆ちゃん、今、おじちゃんはお父さんと話しているの。邪魔しちゃだめよ」
「大丈夫ですよ。ほら、こっちへおいで」
「おや、子どもの扱いも上手なのね。独身なのに立派ですわ」
「あ」
 杉原は何かを思い出した様子で、隆太郎を膝に乗せると、風呂敷包みをほどいて紙入れの中から一枚の写真を取り出した。
 座卓の上に差し出されたその写真を、太郎と隆子は額を突き合わせて眺める。一人の外国人女性が写っている。
「妻です」
「えっ?」
 太郎は顔を上げた。
「結婚したのか?」
「はい。クラウディアといって、ロシア人の女性です」
「国際結婚か」
「はい。まあ、相手がロシア人ということで手続きが煩雑でして、正確には書類の申請中ですが、向こうに戻るころには受理される見込みです」
 当たり前のように語る杉原が、ずいぶん遠くの存在に太郎には思えた。
「あなた」
 隆子が険のある声で訊いてくる。
「本当に何も大事なことは聞いていないのね」
 肩をすくめるしかない太郎であった。

(つづく)