第三話 明智小五郎【3】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

太郎が三日の間原稿用紙に向かって書き上げた作品は、妻隆子をも面白がらせ、日本の探偵小説界を塗り替える画期的な作品だった。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

     三、

 ハルビンという地名は満州語で「魚の網を乾かすところ」という意味を持つ。その名が示す通り、もともとは松花江しょうかこうという川に面した半農半漁の寒村であった。
 一八九六年、その村の運命が激変した。ロシアがしんより満州を横断する鉄道の敷設権を獲得したのである。広大な満州のちょうど真ん中にあったハルビンは鉄道建設の基地となり、わずかな間にロシア人技師たちが大勢やってきた。彼らは丘陵地を切り開いて官庁街を建設、続いて商業地、住宅地、正教の教会が造られ、あっというまにロシア風の街が完成した。
 杉原すぎはら千畝ちうねは今、そんなハルビンの目抜き通り、ボリショイ通りを、コートの襟を立てて歩いていく。十月まではまだ散歩をするに適した気温と言えるが、十一月も後半となるとかなり寒い。だがさすがにロシア人の造った街であり、室内に入るとむしろ日本よりハルビンのほうが暖かいくらいである。
 はやくあの、暖かい部屋に入りたい。千畝の足取りは自然と速くなる。
「杉原さん」
 声をかけられ、立ち止まる。声の主はすぐに追いついてきた。
「なんだ、根井ねい君か」
「なんだはないでしょう。可愛い後輩を捕まえておいて」
 目と目が離れていて、鼻の穴の大きい、人懐こい顔立ちの男だった。千畝はいつも彼の顔を見ると、海亀を思い出す。
「捕まえたのは君のほうだろう」
「まあいいんですよ、そんなことは。ちょっと相談に乗ってほしいことがあるんです」
「急ぐんだ。歩きながらでいいかい?」
「もちろんです」
 再び歩を進めだす。足早に二人を追い抜いて小走りで駆けていくのは満州人の子どもだ。玉ねぎのたくさん入った麻袋を抱えたロシア人の中年女性が、ひょいとそれをよける。建物はロシア風だが、看板にはロシア語と漢字が入り混じっている。
 初めてハルビンの地を踏んでから三年、ロシアと清の共存するこの町に、二人の日本人青年もすっかり染まっていた。
 大正八(一九一九)年、ハルビンに来てすぐ、千畝はロシア人の家庭に寄宿を始めた。夜学でロシア語の文法を学ぶとともに、共に住むロシア人たちから生きたロシア語を学び、数週間のちにはロシア語の新聞の拾い読みができるようになっていた。その後、兵役のために一度は京城(のちのソウル)に赴いたが、再びハルビンに戻り、日露協会学校の聴講生として、ロシア語と満州を囲む国際情勢の勉強に日々を費やしているのである。
「ズゴルスキー先生、いるでしょう?」
 海亀のような顔をきりりとさせ、根井は言った。ズゴルスキーとは、目下日露協会学校で千畝たちにロシア語を教えている教師である。革命で居場所を失い、満州に流れてきた一人であった。髭に半分覆われた顔を常に酒で赤く染め、カード遊びが三度の飯より好きである。
 学校ではもちろん賭け事は禁止されているが、ズゴルスキーはめぼしい学生を見つけてはこっそりルールを教え、ちょっとした空き時間などに彼らを集めてカードに興じているらしい。千畝には声すらかからないが、二歳年下で外務省留学生としてやってきたこの人懐こい後輩は、その遊びの常連なのだ。
「先生、柳原やなぎわら白蓮びゃくれん女史の一件について、日本人女性の心理がよくわからんから説明してくれというんですよ」
 根井は苦笑交じりに言った。
 柳原白蓮とは柳原伯爵という華族の令嬢で、白蓮は短歌を詠むときの号、本当の名は燁子あきこという。みめ麗しいその姿を九州の炭鉱王、伊藤伝右衛門でんえもんに見初められて輿入れし、「筑紫の女王」という名で呼ばれていたが、実は燁子のほうには愛がなかった。というのも、夫の伝右衛門は一代で金持ちになった成り上がり。家柄が欲しくて、傾きつつある柳原家への援助と引き換えに燁子を得たのである。いわば金で買った愛だと、金持ちへのやっかみもあいまって世間は伊藤のことを苦々しく思っていた。
 その白蓮が去年、駆け落ちをした。その事実は新聞を通じて扇情的に報じられ、大陸にも伝わってきている。真の愛を求めて、財力で固められた結婚生活を捨てた白蓮に、世の人々、特に女性たちは喝采を送った。事件のことはここ満州でも噂になっている。
「落ちぶれかけた家を救ってくれた夫を裏切って、何がすばらしいのかと、ズゴルスキー先生は白けているんですよ」
「金より愛を選ぶことを尊いと思う女性が多い。そう説明して差し上げるのはどうだろう」
 千畝は言ったが、根井は首を振る。
「ズゴルスキー先生は貴族びいきで革命政府に追いやられてきた身でしょう? 白蓮女史の行動を、立場をわきまえない小娘のわがままとしか思ってないんですよ。僕のロシア語では白蓮女史をもてはやす女性たちの心理をうまく説明できないんです。そこのところ、ロシア語の堪能な杉原さんならうまくできるかと」
 何の相談かと思ったら、ずいぶん俗っぽいことに悩んでいるものだ。
「自分で何とか伝えてみたまえ。勉強になるだろう」
「ロシア語って微妙なところが本当に難しいから。特に色恋に関する表現なんて習わないじゃないですか」
「だったら僕にも無理だよ」千畝は口元に笑みを浮かべた。「色恋は苦手分野だからね」
 根井は千畝の横顔を見つめていたが、ははっ、と笑った。
「すみません。そうですよね、外務省留学生の星、杉原千畝が色恋にかまけている暇などありませんね」
 皮肉っぽい言葉だが、根井の口から出るとまったくとげがない。人柄とはこういうものだろうと千畝は少し感心する。 
 二人は、玉ねぎ型の屋根を持つ巨大な寺院の前に差し掛かる。ハルビンの中央に位置するニコライスキー聖堂である。千畝は左に曲がる道へ歩を進めていく。
「あれ、杉原さんの寄宿しているお宅はまっすぐでしょう?」
「ちょっと馬家溝マーチャゴウのほうに用事があるんだ。日本語の家庭教師をしていてね」
 小さな嘘だった。
「ひゃーっ」根井は大げさに驚いた。「いつの間にそんな口を見つけたんです? 抜け目がないですね」
「街の人と親しくしていれば、そういう話も見つかるものだよ。根井君も積極的にロシア人と親しくすればいい。教室では得られない、生きたロシア語を学ぶことができるから」
「日々の生活すべてが勉学だというのですね。まったく杉原さんには頭があがりません」
 じゃあ、と根井に手を振り、千畝は歩き出す。
 川を渡ると、馬家溝と呼ばれる、亡命ロシア人が多く住む地域に入っていく。広い道の両脇には電柱が目立ち、家屋はまばらで空が広く見える。にれの木がそこかしこに生え、あちこちに小さな菜園もある。
 しばらく行くと、街路樹の林檎の木の下に、一人の女性が佇んでいるのが見えた。
 杉原が軽く手を挙げて近づいていくと、彼女は恥ずかしそうにうつむいた。
「待ったかい?」
「いいえ、ちっとも」
「歩こうか」
 ええ、と彼女―クラウディア・アポロノヴァは言った。
 クラウディアとの出会いは三か月前、日露協会学校で開かれた文化交流会であった。ハルビンに住む日本に興味のある若者がやってきてロシア料理を振る舞うのである。機会があればロシア人と話をすることにしている千畝は、その手伝いを買って出た。調理台に向かい、いざ下茹でされたかぶの山と包丁を目の前にして、千畝は困ってしまった。
 蕪の皮など剥いたことがない。早稲田で貧乏暮らしをしていた一年と少しのあいだ、もちろん自分で食べる分は作ったが、薄いかゆのようなものばかりで、包丁はほとんど握らなかった。
 仕方がないので蕪にそのまま刃を入れようとしたら、
「そんなやり方じゃ危ないわ」
 と、一人の女性が声をかけてきた。貸してというので、包丁と蕪を渡すと、彼女はまずへたを取り、四つに切ってから皮を剥きはじめた。
「うまいものですね」
「ロシアの女ならみんなできるわよ。私はクラウディア。あなたは?」
「チウネ・スギハラといいます」
「おかしな名前。でも、ロシア語は上手ね」
 彼女は日本に興味を持ち、いろいろ質問をしてきた。
「こういうふうに、学校に地域の人を招く行事って、日本人はよくやるの?」
「いや、私の通っていた学校では…」
 言いかけてふと、千畝の頭に浮かんだのは、平井太郎と隆子りゅうこの顔だった。
「小学校などには、大人たちが行って、童話を聞かせたり劇を見せたりすることがあります」
「それは面白そう。チウネも劇をやったことがあるの?」
「私はやっていません。ですが私の友人からそういう話を聞いたことがあります」
 千畝は太郎と隆子の話を聞かせた。初めは楽しそうに聞いていたクラウディアだが、隆子が太郎を追って下宿に行ったくだりで、突然、どん、と包丁を叩きつけた。
「なんなのそのタロウという男! 思わせぶりな手紙を送っておきながら、仕事が嫌になって逃げたなんて、信じられない!」
 周りで料理を作っていたロシア人たちが驚いてクラウディアを見る。自分が彼女を怒らせたように見えないかと、千畝は冷や冷やした。