第五話 満州国と二十面相【1】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

自分の創作姿勢に疑問を抱いた乱歩は休筆宣言する。そんな折、帰国中の千畝に出会うのだが、彼はなぜか人が変わったようだった。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

     一、

 千畝ちうねがその男に初めて会ったのは、一九三一年の四月のことだった。その日は総領事館での仕事が終わったあと、ロシア人街の外れにある《ディリフィーン》という店に来ていた。
「イケダさーん、ボルシチ、たべてください」
 薄青い照明のもと、すぐ隣に座っているドレス姿のロシア人女性がおぼつかない日本語で言う。熱心に日本語を勉強しているポリーナだ。
「ありがとう。だが家で食べられなくなると困るから」
「ボルシチ、この店のメイボツ」
「『名物』というのが正しい発音だよ」
「そう、メイボツ、たべてください」
「しょうがないな」
 苦笑しながらスプーンを取る。塩味が強く、酸味も野菜の味も消されている。義母の作るかぶのスープのほうがよっぽど美味かった。
 千畝が留学生として赴任してきた当時から、ハルビンは歓楽街の華やかな街だった。
 ハルビンにはロシア人女性が働くキャバレーが多い。経営者は日本人の場合もあればロシア人、満州人とまちまちだ。以前は裸踊りを見せる店や、売春宿まがいのいかがわしい店も乱立していたが、取り締まりが厳しくなってからは、この店のような、女性がそばについて会話を楽しむという店が主流になっていた。
 千畝はこの店では貿易会社勤務の池田と名乗っている。ソ連と通じている共産系ロシア人が出入りしているとの情報を得て二か月前に初めて訪れた。話せる間柄になれば有用な情報が入る可能性は大きい。しかし、どの客が目的のロシア人なのか判断しかね、一日おきぐらいに通っている。
「おいしいでしょ?」
「ああ、そうだね」
 そう答えたとき、目の前に男が立った。その服装を見て、千畝は背筋を正す。関東軍の軍服である。三十手前だろう。階級はあまり高くなさそうだった。頬に下向きの矢印のような形の傷があり、無骨さを際立たせている。
「お久しぶりです。こんなところで会えるとは」
 不器用な笑みを浮かべ、軍人は言った。もちろん知らない顔だ。そして向こうも、初対面であることを承知しているようだった。
「イケダさんと友だち?」
 不思議そうなポリーナに「ああ」と答える。相手が関東軍ならトラブルになる可能性がある。ことを荒立ててはいけない。
「外で話しませんか?」
 立ちながら提案すると、彼は笑顔で応じた。
「ぶしつけに失礼しました。関東軍の犬沢いぬさわ晴武はるたけと言います」
 表に出るなり、思いがけず軍人は直角に腰を曲げて謝った。敵意があるようではなさそうだった。関東軍が民間人に頭を下げるなんて、と、道の向こうの三人組のロシア人が珍しそうに見ている。
「私のことをご存じで?」
 千畝が訊ねると、犬沢は姿勢を戻し、口をニッと開いた。街灯の心細い明かりに照らされた矢印型の傷は、店内で見るより一層不気味だ。
「ハルビン総領事館書記生の、杉原すぎはら千畝さんでしょう。あなたの情報網の細密さは満鉄調査部をもしのぐと、関東軍にも聞こえています。率直に申し上げます。関東軍は、あなたのソ連の情報網を欲しています。ぜひお近づきになりたいのです」
 嫌だな、と千畝は思った。
 つい半年ほど前、ハルビン駅のそばで関東軍の兵士が数人歩いているのを見かけた。彼らは大声で満州人たちを怒鳴りつけ、サーベルで脅しているようだった。やめさせようとしたが同行している同僚に止められた。
 妻のクラウディアによれば、知り合いの雑貨商が関東軍にあらぬスパイの疑いをかけられ、商品を没収されたらしい。本来は満鉄の警護を任務としているはずだが、明らかに威圧的な彼らに、千畝は悪印象を抱いている。 
「もちろんタダで協力せよとは申しません」