額装師の祈り 奥野夏樹のデザインノート

額装師の祈り 奥野夏樹のデザインノート

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 家のすぐ近くのスーパーで、材料を買った。カランツはなかったから、一般的なレーズンだ。手書きのレシピにも、レーズンとしか書いてなかったから、手近なものでつくればいいのではないだろうか。昔のイギリスのお菓子だから、本当のところ小麦粉や砂糖の種類も違うのだろうけれど、そんなことを考えてもしかたがない。
 家のキッチンには、祖母が使っていたお菓子づくりの道具がそろっていたし、輸入品の立派なガスオーブンもある。つぐみと沙也佳は、早速ぶどうパン作りに取りかかることにした。
「パンなんて、自分でつくったことないよ」
「レシピ通りにつくれば大丈夫。たぶん」
 つぐみは材料を量り、手順を確認する。手書きのレシピは、汚れないようにビニールの袋に入れた。
「メイフェア? 違うな、ピカデリーでもないし、ケンジントンでもないし」
 パンをこねながら沙也佳が言う。
「何の話?」
「ロンドンで食べたパンの名前。ほら、地名が入ってたでしょ?」
「あー、えっと、たしか…」
「チェルシー!」
 ふたり同時に思い出し、ふたりで笑う。
「チェルシーバンズだったね」
「それそれ」
 発酵を待つ間も、おしゃべりは止まらない。お互いに、しゃべり溜めをしようとするかのようだ。
 タイマーが鳴ると、パン生地は二倍くらいに膨らんでいた。今のところ、うまくいっている。めん棒で生地を大きくのばし、砂糖とレーズンをちりばめる。端からくるくると巻いて、棒状になったものを切っていくと、切り口が渦巻き状になっている。レーズンと砂糖が詰まった渦巻きだ。
「渦巻きのパンって、こうやってつくるんだね」
「シナモンロールとかね」
「そういえば正輝まさき、シナモンロールが好きなんだ。つきあい始めたころ、待ち合わせのカフェでよく食べてた」
 和菓子屋の息子なのに、洋風のほうが好きみたい、と前にも沙也佳は言っていた。
「つきあって半年だっけ?」
「うん、たった半年で結婚決めるって、早すぎたかな」
「だけど、年齢からしたら早いほうがいいじゃない。ちゃんと結婚考えてくれて、正輝さん、誠実だよ」
「わたしとつきあう半年前に、前の彼女と別れてるんだよ。その人と結婚も考えてたみたいだし、とりあえず結婚したかったのかもって思えてきて」
 その話も聞いていた。以前はそんなこと少しも気にしていなかったのに、沙也佳はマリッジブルーなのだ。
「前の彼女と沙也佳のことは別だって。沙也佳と結婚したいから、プロポーズしたんでしょう?」
「お互い、知らないことがまだあるのに」
「何年つきあってても、知らないことはあるもんじゃない? 沙也佳、言ってたじゃない。正輝さんとは、思ってること伝え合えるところがいいんだって」
「これからもそうできるのかな…」
 ふだんはキッパリはっきりしている沙也佳が、ナーバスになっている。つぐみのほうがいつも、悩みや愚痴が多いのに、彼女を元気づけることになるなんて意外だった。
 けれど、悩みまくっている沙也佳は、案外かわいらしい。つぐみはついニヤけてしまう。
「ねえねえ、これ、シナモン入れてもおいしいんじゃない? ふたりでつくってみたら? 正輝さん、料理はするほうなんでしょう?」
「うーん、お菓子とかはさすがに、つくったことないと思うけど、好きなものならつくってみたくなるかなあ」
 食事の支度とはまた違う、なぜかお菓子をつくるのはウキウキする。思い出のチェルシーバンズを沙也佳といっしょにつくっているからか、つぐみはますます楽しく感じている。沙也佳と彼も、好きなものをふたりでつくるなら、きっと楽しい時間になるだろう。
「いいなあ、沙也佳は。これからはひとりじゃないんだね」
 オーブンがあたたまる。バンズもほどよく発酵している。あとは焼くだけだ。
「何をするにもひとりじゃなくなるって、うらやましいよ」
 沙也佳と覗き込んだオーブンを前に、つぐみは素直に本音を口にしている。オーブンの中には、ワクワクが詰まっている。うまく焼けるだろうか。おいしいだろうか。不思議と失敗は頭にない、期待感でいっぱいだ。結婚への不安も、取り残される寂しさも、新しい自分への始まりなのだ。沙也佳が新しい世界に飛び込むように、つぐみも自分を変えていけるだろうか。
「なんか、うれしいな。つぐみと話してると、いつもうれしくなれる。いろんなところで愚痴言ってると、結婚って大変なんだねって言われちゃったりするけど、つぐみがうらやましがってくれたら、すごくいいことなんだって思えてきた」
「そりゃあ、いいことに決まってるじゃん」
 ほっとしたように、沙也佳が微笑むと、つぐみもうれしくなる。彼女の結婚に、取り残されるかのようで、心からいっしょに喜べなかったのがうそみたいに、今はうれしい。