【試し読み】谷瑞恵『小公女たちのしあわせレシピ』第一話「奇跡のぶどうパン」②
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キャリーバッグを引きずって、つぐみは家を出る。空っぽなので軽すぎて、かえって引きずりにくい。それにしても、どうして空なのだろう。メアリさんが喫茶店に置き忘れたというが、空のままのキャリーバッグを持って出かけたのか、それともどこかに中身を届けたあとだったのだろうか。
“ホテルのはな”は駅前といっていい立地だが、市役所は少し歩いたところにある。駅前から続く商店街の、反対側の出入り口近くだが、市の中心部が駅から離れているのは、かつて市電が走っていたころの繁華街がその辺りだったからだという。駅周辺も開発が進んで、ホールや会議場といった公共施設ができるとともに、真新しい集合住宅も建ったが、昔からのごみごみした市街地は、商店街の向こう側に集まっている。
つぐみは商店街を途中で抜け、近道をしようと狭い路地へ入っていく。そのとき、何かがこちらへ向かってくる気配を感じ、とっさに身構えた。視界に入ったものを、ピンクの物体としか認識できないままに突進され、尻餅をつく。生暖かい感触が重くのしかかり、鼻息を耳元に感じながらも、つぐみは必死でその正体を凝視していた。
ブタだ。なぜかブタが、うれしそうにつぐみにまとわりついている。何が何だかわからなくて、叫び声も出ない。 「ムシャムシャ、やめろ」
誰かがそう言って、つぐみからブタを引き剥がした。リードを引かれ、ブタはおとなしくお座りする。その隣で、灰色の人影が身をかがめてこちらを覗き込む。
「大丈夫か?」
丸っこい目がつぐみの前にある。くるくると勢いよくカールしたくせ毛も相まって、人なつっこいプードルみたいな男の人だと思いながら、つぐみは不作法にも、じっと観察してしまう。
「怪我してるじゃないか」
そう言われて視線を動かし、服のそでに血がついているのを見て、つぐみはあわてた。
「血、血が……、やだ、噛まれた?」
「いや、それは噛み傷じゃない。手当するからこっちへ」
有無を言わせず、彼はつぐみの腕をつかみ、キャリーバッグもつかんで、すぐそばの古い家へ入っていく。板塀に囲まれた平屋の民家だが、引き戸の内側は、壁際にベンチが作り付けられていて、なんとなく待合室みたいだった。そこにつぐみを座らせると、素早く手首の怪我を確認し、傷口を洗い流してテープを貼った。
「転んだとき、どこかで切ったんだな。ま、これで大丈夫だろう」
ジャージの上下を着ている。まだまだ寒い日が多いのに、裸足にビーチサンダルだ。
「お医者さんなんですか?」
まったく医者には見えないが、手当の手際良さと、待合室の雰囲気に、つぐみは問う。
「獣医」
「あー、そっちですか」
まてよ、だとすると、医療道具は動物用ではないか。いやいや、ちゃんと消毒されているだろうし、小さな怪我なら人間でも動物でもそう違いはなさそうだ。ともかく、自分で手当するよりましだったはずだと、気を取り直す。 しかしまだ、つぐみは安心しきれない。
「あのう、その子、もう暴れたりしません?」
受付だと思われる、カウンターのそばの金具につながれて、ブタはキャリーバッグに寄り添いながらおとなしくしていたが、体重だって七、八十キロはありそうだし、たぶんミニブタなのだろうけれど、それなりに迫力がある。襲いかかられたのだから、さすがに怖かった。
「ムシャムシャは人に噛みついたことはないんだが、申し訳なかった」
彼は深々と頭を下げる。強引でぶっきらぼうな人、というわけでもなさそうだ。
「たぶん、キャリーに反応したんだ。あれ、メアリさんのじゃないか?」
「メアリさんを知ってるんですか?」
「ムシャムシャは、メアリさんのミニブタなんだ。彼女はホテル暮らしだったから、おれがあずかってた。何かあったら引き取るって約束もしてた」
「何かって……、メアリさんは病気だったんでしょうか」
彼は小さく頭を傾げた。
「さあ、でも、ひとりで生きてたら、万が一のことは考えるだろ。ムシャムシャは、捨てられたのか弱り切って、浜辺でうずくまってたのをメアリさんが拾ったそうだ。ミニブタって、子豚のころは小さくてかわいらしいけど、想像するより大きくなるからな。かわいそうに、ここへ連れて来られたときは、衰弱して怯え切ってたけど、メアリさんは毎日世話をしにやってきて、かわいがってたらすっかり元気になってさ」
「じゃあ、この子は、メアリさんのことが大好きだったんですね」
「ああ、そのキャリーバッグを見て、引きずる音を聞いて、メアリさんだと思ったんだろうな。急に走り出したんだ」