【試し読み①】『逃げても、逃げてもシェイクスピア』 プロローグ

『逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事』刊行記念特集

更新

 完訳を成し遂げた翻訳家の仕事と人生はこんなにも密接につながっていた。
 ソ連に11年抑留された父、女手一つで子供達を守り育てた母。自身の進学、結婚、子育て、介護、そして大切な人達との別れ―人生の経験すべてが、古典の一言一言に血を通わせていった。
 シェイクスピア全戯曲37作を完訳し、82歳となった現在も最前線で活躍する翻訳家・松岡和子さんが、最初は苦手だったシェイクスピアのこと、蜷川幸雄らとの交流、一語へのこだわりを巡る役者との交感まですべてを明かす宝物のような一冊。
『逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事』(草生亜紀子著、新潮社刊)から、プロローグを試し読み公開します。

    ***

逃げても、逃げてもシェイクスピア

逃げても、逃げてもシェイクスピア

  • ネット書店で購入する

「いちばん大きな喜びの瞬間は、自分が訳した言葉を俳優さんがしゃべってくれるとき。演出家の手が入って俳優さんが動いてくれるとき。それはもう、こんなに幸せな仕事はない。一人で書斎にこもって苦心していたのが報われる瞬間です」
 翻訳家・松岡和子は戯曲を翻訳する喜びを語った直後に、こう続けた。
「運命を呪うことがあるんです。なんでこんなめんどくさいことに足を突っ込んじゃったんだろうって。翻訳はちゃんとできて当たり前なんです。ダメな翻訳は、とってもダメ。だけど、いいからといって『べつに~』なのよ。よくできていても、それは『当たり前』でしかない」
 冗談めかしてさらりと口にした愚痴だった。だが、ウィリアム・シェイクスピアの全戯曲三十七作品を翻訳するという偉業がもたらした大きな喜びの裏にある、人知れぬ孤独な呻吟を想像させるに十分な言葉だった。
 和子が愚痴をこぼした相手は、俳優の河内こうち大和やまと。大ヒットドラマ「VIVANT」でバルカ共和国の「ワニズ外相」を演じて圧倒的な存在感を示した河内を対談のゲストに招いての講演会でのことだった。河内はこの作品がテレビドラマ初出演だったが、舞台では二十年以上シェイクスピア作品に取り組み、『リチャード三世』をはじめとする数々の作品に主演し、自らの演劇集団で演出もしている。そんな河内のことを、和子は何年も前から注目していた。俳優としても、自分が翻訳した劇世界を「見事に実現してくれる役者」として全幅の信頼を置いてきた。
 八十一年の人生の大半をシェイクスピア劇とともに歩んできた和子にとって、シェイクスピアの虜になり、シェイクスピアにこだわって上演を重ねる河内は、頼もしい同志のような存在だ。
 この日、河内は自分で思いついた「シェイクスピアどう」という言葉について語っていた。大学生の時に『夏の夜の夢』で初舞台を踏んで以来、シェイクスピアに魅了され、一筋に歩んできた「シェイクスピアの道」は、武士道にも通じる「道」なのではないか。自分が歩いてきたのは、まさしくシェイクスピアの道であり、これからもその先に続く道はある。天にも地にも道はある。そういうさまざまな道が交錯して今の自分がある。そんな思いを込めて、自らの日々の実践を「シェイクスピア道」と名付けた。極めることなどできないけれど、極めたい。自らを律しながら、シェイクスピアと格闘し続けるためにも「道」という表現がふさわしいのではないかと考えた、と。
 身を乗り出して河内の言葉を聞いていた和子は言った。
「すごい言葉を作りましたね。この言葉を聞いて私も目がパチッ! となった。(河内さんに)ピッタリだなーと思った。私もちょっと脇をついて歩きたい」
 和子は、素晴らしい人や素晴らしいものに出会ったとき、心からの称賛を惜しまない「讃美する者」だ。誰に対しても偉そうにしたり、冷ややかな態度をとったりすることはない。この日もはるかに年下の河内を敬意に満ちた眼差しで見つめ続けた。
「今日ここに来た人(と、オンラインで見ている人)全員を河内さんのファンにする」
 和子はそう考えて対談に臨んでいた。この日ばかりでなく、誰とでも常にそういう姿勢で対談に向かう。そのためには常に自分が相手のいちばんのファンでなければならない。
 シェイクスピア全作品完訳を終えても和子の仕事は終わらない。シェイクスピア作品が松岡訳で上演されるたびに翻訳を見直し、アップデートし、常に「最善のもの」を残しておこうとする努力を続ける。呼ばれれば講演会や勉強会に参加する。

松岡和子さん(写真・井上佐由紀)
松岡和子さん(写真・井上佐由紀)

 月一回の朝日カルチャーセンター横浜教室の講座では、「トリビアから読むシェイクスピア」を謳い文句に、一回で一作品を語るという無謀とも言える試みをしている。一方、やはり月一回のNHKカルチャーでは、『ハムレット』『リチャード二世』『リチャード三世』などを読んできた。まず毎回一定の行数をみんなで順繰りに音読して(「黙読は知識になり、音読は経験になる」というのが和子の信条)一文一文を味わい、それを解説して読み解いていくもので、「いつ終わるかわからない」と予告してスタートした連続講座だ。
 スケジュールにほとんど空きはない。「いつになったらゆっくり休めるのだろう」とため息をつくこともあるが、それもこれも、すべては「シェイクスピアのため」。
 そう思うようになったのは、ある大先輩の言葉がきっかけだった。その人は、英文学者で上智大学教授だった安西徹雄。シェイクスピア研究の大家で演劇集団「円」の演出家・翻訳家としても活動した。安西は「円」で俳優・金田明夫を中心とするグループが安西訳ではなく松岡訳で『リチャード三世』や『マクベス』を上演するのを認め、自著の文庫化では解説文を和子に依頼し、安西が主宰する国際シェイクスピア学会のパネルディスカッションに参加させてもくれた。不思議に思って、あるとき聞いてみた。「どうして応援してくださるのですか」。すると、返ってきた答えが、「大事なのはシェイクスピア、誰の翻訳かは二の次です」。以来、和子にとって、この言葉が仕事をする上での支えであり、軸になっている。
 和子が歩んできた「シェイクスピアの道」を振り返ると、戦時中この世に生を享け、母に手を引かれて満州から命からがら引き揚げて、ソ連に抑留された父の不在を経て、懸命に学び、運命の糸に操られるようにシェイクスピアの戯曲に出会った人生がある。そこには、結婚、出産、仕事と育児の両立、姑との確執とそれに続く介護といった「女のフルコース」を歩みながら、大好きな芝居とシェイクスピアを手放さなかった、たおやかで逞しい足跡が残っている。
 日本人として三人目、日本女性としては初めて、シェイクスピアの戯曲三十七作を二十八年の歳月をかけて完全翻訳した和子の歩んだ道は、決して平坦なものではなかった。だが苦悩を外に見せることなく、あらゆる難題に立ち向かいながらも、軽やかに、スキップするように進んできた。
 これは、朗らかさの奥にとてつもなく強靭な精神を持つ女性の「覚悟の物語」である。と同時に、戦中・戦後を生き抜いてきた家族の物語でもある。
 まずは、和子の人生に大きな影響を与えた父と母の物語から始めたい。

(プロローグ・了)
このつづきは、発売中の『逃げても、逃げてもシェイクスピア 翻訳家・松岡和子の仕事』(草生亜紀子著、新潮社刊)でお楽しみください!

≪もっと読む≫
【試し読み】松岡さんは40年以上前にジェンダーレスの潮流を予感していた⁉『逃げても、逃げてもシェイクスピア』② 

【試し読み】シェイクスピア全訳の旅が始まったきっかけ『逃げても、逃げてもシェイクスピア』③