【試し読み】西加奈子長篇作品『夜が明ける』②

【試し読み】西加奈子長篇作品『夜が明ける』

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 15歳の時、高校で「俺」は身長191センチのアキと出会った。 普通の家庭で育った「俺」と、母親にネグレクトされていた吃音のアキは、 共有できることなんて何一つないのに、互いにかけがえのない存在になっていった。大学卒業後、「俺」はテレビ制作会社に就職し、アキは劇団に所属する。しかし、焦がれて飛び込んだ世界は理不尽に満ちていて、少しずつ、俺たちの心と身体は壊れていった…。
 思春期から33歳になるまでの二人の友情と成長を描きながら、 人間の哀しさや弱さ、そして生きていくことの奇跡を描く、西加奈子さんの感動作です。

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 俺がアキに「それ」を告げることになったのは偶然だ。
 担任に呼ばれ(どういう用事だったかは記憶にない)、俺はその日職員室にいた。担任は生物の教師だった。次の授業の実験器具を運ぶ役を頼まれたのが、体の大きなアキだった。
 俺とアキを待たせておきながら、担任は他の教師とぺちゃくちゃ話していた。ふたりで放っておかれて、多分気づまりだったのだろう。俺はやむにやまれず、アキにこう話しかけたのだ。
「お前はアキ・マケライネンだよ!」
 多分俺は、まだアキを恐れていた。「取るに足らない奴」だと認識してはいても、アキの体が巨大であることに変わりはなかったし、3、4人殺してきた雰囲気だって健在だった。きっと俺は、思春期の男子が皆きっとそうするように、「ビビってないぜ」という態度を見せようとしたのだ。そして願わくば、ちょっと変わった奴、として認識してほしかったのだろう。
「お前はアキ・マケライネンだよ!」
 アキがマケライネンを知らないことは、もちろん承知の上だった、はずだ(知識を誇るのは俺の悪い癖だった。特に皆が知らない知識を)。アキは俺に突然話しかけられて驚いていた。というより、明らかにビビっていた。肩を震わせて、音が聞こえそうなほど、体を固くした。身長165センチの俺を明らかに見下ろす位置にいながら、アキはやっぱり、俺を見上げているみたいな顔をしていた。
「だ、だ、だ誰?」
 その上、アキはひどい吃音きつおんだった。そんなアキを見て、俺は安心したのだろう。「知らないんだったらいいよ、こっちの話」、そんな風にうそぶく必要がなくなった。つまり、素直になれた。
「すげぇ面白い奴。どんなに悲しい状況でも、どんなに苦しい人生でも、マケライネンが演じたらとにかく笑えるんだ。なんていうか、生きる勇気がもらえるんだよ。」
 信じられないことに、俺はその日アキを家に誘ったらしい。『男たちの朝』を観にこないか、と。アキみたいな奴と話が弾むとは思えなかったし、得体の知れない人間を家に誘うような根性は、俺にはなかった。でもそう言ったらしいのだ。
 アキは日記に、こう書いている。
『家にさそってくれた。アルバイトがあったから断った。くやしい。すごく行きたかった。』

 翌日、アキは廊下で急に話しかけてきた。
「そ、そ、その人のこと、おお教えてほしいんだ。」
 その様子は「必死」以外の何ものでもなかった。ほとんど命乞いするような勢いで、アキは俺に頼んだ。俺が断ったら、土下座でもなんでもしたんじゃないだろうか。
 アキの期待にはできるだけ応えてやりたかった。でも、俺だって知識は限られていたし、そもそもアキ・マケライネンの情報なんて日本に流通していなかった(みんながインターネットという「辞書」を持つようになるのは、そこから数年後の話だ)。だから俺は、アキに『男たちの朝』を貸すしかなかった。それだって一苦労だ。父の膨大なコレクションの中から、随分前に観た1本のビデオテープを探すのだから。日付が変わる頃に探し始めた結果、埃だらけのそれを見つけたのは、たしか明け方だったと思う。
 アキは、そのビデオテープを宝物のように抱いて帰った。そして数日後、
「み、み、みみみ観たよ。」
 俺の教室に、息せき切ってやって来た(何人か殺したようなあの顔で突進してくるものだから、クラスメイトの何人かは、本当に俺が殺されると思ったようだ)。
「ぼ、ぼ、僕かと思った。」
「だろ? 似てるってレベルじゃないよ。」
 アキが、顔を真っ赤にしたのを覚えている。恥ずかしかったのではなく、興奮していたのだ(それとも、そのどちらもか)。
「やっぱりお前は、マケライネンだよ!」
 俺の言葉に背中を押されたのだろうか。アキはその日から自身のことを、マケライネンだと名乗り始めた。
「ぼ、ぼ、僕はマケライネンだ。」
 俺に「深沢」ではなく「アキ」と呼ぶことを求め、マケライネンと同じように無精髭を生やし、あげくの果てには、40歳で凍死すると宣言した。
 40歳で死ぬなんて若すぎる。しかも凍死だなんて。健康な男子高校生の夢としては、あまりに悲惨な末路だ。
 でも、当時15歳だった俺たちにとって、それは永遠に来ない未来の話だった。40年生きている奴なんて完全なおっさんだったし、40歳の人間のことを話すのは、ほとんど70歳の老人のことを話すのと同じだった。高校生にとって世界は「俺たち高校生とそれ以外」だ。未来なんて、遠くにありすぎて考えられない。しかも「フィンランドってどこ?」、そんな感じだ。
 何よりアキにとって重要だったのは、マケライネンがもう死んでいる、ということだった。出逢ったときにすでに死んでいるということは、二度と死なないということだ。つまりマケライネンは、アキの中で永遠に生きているのと同じことになった。