【試し読み】西加奈子長篇作品『夜が明ける』③

【試し読み】西加奈子長篇作品『夜が明ける』

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 15歳の時、高校で「俺」は身長191センチのアキと出会った。 普通の家庭で育った「俺」と、母親にネグレクトされていた吃音のアキは、 共有できることなんて何一つないのに、互いにかけがえのない存在になっていった。大学卒業後、「俺」はテレビ制作会社に就職し、アキは劇団に所属する。しかし、焦がれて飛び込んだ世界は理不尽に満ちていて、少しずつ、俺たちの心と身体は壊れていった…。
 思春期から33歳になるまでの二人の友情と成長を描きながら、 人間の哀しさや弱さ、そして生きていくことの奇跡を描く、西加奈子さんの感動作です。

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 ふゆのあさに、ぼくはうまれた。
 すごくさむいひだったと、おかあさんがいっていた。
 ぼくはとてもおおきいあかんぼうだった。でもなくこえがちいさくて、みんなとてもしんぱいしました。からだ はむらさきいろでした。あしはぶるぶるとふるえていました。ぜんしんにびっしりけがはえていました。おおかみのこどもみたいだった。
 けはだんだんぬけていきましょうと、さんばさんがいったけど、ぼくはずっとけがたくさんあった。みんなはぼくのことを「ひげおとこ」とよんで、おかあさんはぼくのことを「わたしのおおかみちゃん」といった。
 おおかみはつよい。
 どれだけさむくてもがまんして、にんげんよりもかしこくて、ふといあしをもっている。ぼくのゆめはずっとおおかみをみることです。よるのもりで、まっくらの、なかで、おおかみをみることが、ぼくのゆめ。

 冬の朝に、アキは産まれた。
 明け方に産まれたから、暁と名付けられたそうだ。
 産まれたのは、母親の実家がある北の街、その外れのとても小さな集落だった。1982年、中曽根康弘内閣が発足した日のことだった。
 アキの母親は、19歳でアキを産んだ。アキの父親と出逢ってアキをみごもったが、アキが産まれる前に、父親になるはずの男は姿をくらました。頼るあてのなくなった母親は出産のために実家に戻り、アキを産んで、しばらくそこで育てた。
 アキの最初の記憶は、台所の風景だ。
 小さな台所には窓があったが、建て付けが悪いので、すきま風がひどかった。家中で一番寒く、ねずみすらよりつかない。流しには古びた、でもいつまでもなくならない石けんが紫色のネットに入れてつり下げられ、いたるところにホーローや空き缶が乱雑に並べられていた。雨漏りしたときに、床に置くためのものだった。
 雨の日は家中がピコン、ポコンと騒がしかった。アキはその音が好きだった。家中の床に輪じみがつき、それはどれだけこすっても消えなかった。アキはその輪じみを「島」と呼び、その島しか踏んではいけないと自分に課した。島から足を踏み外すことは、死を意味した。
 台所には、他のどの部屋よりもたくさんの島があった。だから家中で一番寒いその台所で、アキは大半の時間を過ごした。どれだけそこにいても、アキは風邪を引かなかった。特別寒い日に産まれたからだと、誰かが言った。
 その誰か、祖母か、それとも別の女性(母ではなかったと、アキは書いている。そしてその人が誰だったかを知るのは、ずっと後のことになる)が、さけの腹を包丁で割いている。それがアキの最初の記憶だ。
「危ないよ。」
 近くで見ようとするアキをその人は制し、大きな鮭の腹に包丁を当てる。その人の腕には金色の光る毛がびっしりと生え、山から流れる川のように、筋肉の筋が入っている。
 ゾゾゾゾ、ゴリゴリゴリ、およそ生き物の皮膚を割いているとは思えない音が響く。刃先が錆びているのか、包丁がなかなか動かない。
「全然切れないじゃない、これ。だめだねぇ。」
 そう言いながら、でもその人が怒っている気配はない。それどころか、はしゃいでいるように見える。だからアキも、どこかわくわくしている。台所には鮭の生臭いにおいが溢れていて、そのにおいは、その人のどこか甘いにおいと混じって、アキを落ち着かなくさせる。
「いち、にの、」
 さん、とその人が言った瞬間、嘘みたいにすべらかに包丁が動く。鮭の腹がぱっくり開くと、中は鮮やかなオレンジ色だ。びっしり詰まった筋子すじこがどろりとこぼれて、生臭さは強くなる。筋子はひとつひとつが光り、濡れている。教えられる前から、アキはそのひとつひとつに、命が宿っていることを知っている。
「ああ疲れた。」
 その人の吐く息は白く、台所に入るすきま風が、あらゆるものを冷やす。でも、よく見ると、鮭の腹からは湯気が上がっている。その人は自分の手を鮭の腹に当てて、こう言う。
「なんてあったかいんだろう。」
 この記憶は、アキが2歳の頃だと言う。
 人間が2歳の頃のことを記憶出来るのかどうか、俺には分からない。でも、アキがそう書いている。3歳になる前にその家を出た、と。そして俺は、無条件にアキの言うことを信じるようにしている。俺の命の恩人だからではない。何度も言う、アキは嘘をつく人間ではないからだ。あるいは嘘をつける人間であれば、生きることが少しでも容易になったかもしれないのに。