別の人生=小説へ

レビュー

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鳥打ちも夜更けには

『鳥打ちも夜更けには』

著者
金子 薫 [著]
出版社
河出書房新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784309024455
発売日
2016/02/23
価格
1,620円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

別の人生=小説へ

[レビュアー] 大澤聡

 眼下に延々ひろがる大パノラマは、メソトレッラ大陸であり、クレセントレイクの町であり、パラメキア砂漠であり、カシュオーン城であり、バフスクの洞窟であり……、なのに僕らは主人公とその仲間たちに、「さとし」とか「けんじ」とか「しんいち」とか「まいこ」とかいった具合に自身と周囲の人間の名前をあてがっては、その不釣り合いを意に介すことなど全くなく、平然と物語に没入していたのだった。「さとし」はじめキャラ一行はといえば、その名におよそ似つかわしからぬ世界に身を晒す異常事態に直面しているにもかかわらず、自分が何ゆえ次から次へと出現する悪者たちと闘う旅を続けなければならないのかという疑念を抱く余裕すら与えられぬまま、“この世界を救う戦士”として粛々と職務をまっとうしてゆく。何ゆえもなにも、とにかく世界はそういうことになっているのだ。キャラたちがこの一点を疑うや、「この世界」は崩壊する。それは“革命”にほかならない。数的データの横溢やマップ的構成もそうだけれど、まさにそこにおいて、本作は僕にRPGをイメージさせた。むろん迷惑な誤読だろう。が、続ける。

「沖山が架空の港町で鳥打ちを始めてから、すでに十年が経とうとしていた」――この所与の一文にはじまる物語は直後に、一三世紀末の「アレパティロ大王」が魅了された希少種の蝶「アレパティロオオアゲハ」や、その餌となる「ネルヴォサ」の葉と花など架空の固有名を招き連ねてゆく。「レネフ・アニュティ大通り」や「エルド小道」「ソロイ城」などで組織されたこの町の長は、主要産業を漁業(=海鳥と漁師)から観光(=蝶と花畑)へと転換すべく、蝶を食む鳥を吹き矢で駆除する「鳥打ち」なる職業を設定した。矢の針には「ロロクリット」の葉から抽出された毒を塗る。

 この仕事に採用されたのは「沖山宏明」「天野正一」「保田洋介」の三人である。名前と舞台のミスマッチは、しかし違和感なく登場人物たちに受入れられるだろう。ひいては本作の読者たちに。この点を疑うとたちまち読む行為が不成立となるからだ。設定自体が小説というフォーマットをめぐる自己言及になっている。この町が(作中の)現実でも地図上でも「架空の港町」と名指されているのはそれゆえである。

「名前の効力とは侮り難いもので、自分は架空の港町の住民であると常日頃から考えているうちに、自身の人生までが絵空事に思えてくる」。僕たちは所与の条件を受入れ生きている。RPGの登場人物たちのように。では、その「絵空事」性を自覚したとき人はどう対処するのか。

 解のバリエーションが仕事に対する三者三様のスタンスに凝縮される(なお、ネルヴォサは黄緑紫の三色の花をつける)。保田は狩りに歓びを見出し技術向上に勤しむ――「この仕事を疑ってしまったら何も残らない」。他方、仕事に猜疑心を覚えた天野は鳥を殺せなくなる――「海鳥を殺すことを想像しただけでからだに異変が生じる」。そして、沖山は自身の日常を観察し、とにかく克明な日誌をつけるしかない――「自分がそのとき何をしているのか、常に把握できているような状態を理想とした」。そう、これは究極的な職業小説である。

 最終的に、天野は職務放棄し失踪することになる――RPGの代表作「ファイナルファンタジー」のキャラデザインを担当した天野喜孝の「天野」に掛けてみたいがもちろんこれも誤読である(僕が冒頭に列挙した固有名は同作より)。事態の影響は残された二人の心理状況へもおよび、保田までもが「自由と必然性をめぐる問題」に思考を占領され煩悶する。そこで語り手はこう要約するのだ。「まだ幼かった頃、彼の生きていた世界は可能性に満ちていた。二十九歳の鳥打ちとなった現在[…]に至るまでには、数えられないほどの分枝があったはずである」。

 現在の少なからぬ若手作家が拘泥する問題ではある。震災で死んだのは自分だったかもしれない、その「かもしれない」(=可能世界)を小説に書込むことによって「この世界」に厚みを与える。もはや定番と化したこの課題を本作は寓意性高い水準で遂行してのける。しかも、その先も書かれる。保田はこう思う。「何度生誕をやり直し、何度この生涯を辿り直したところで、やはり俺は鳥打ちとなり、あのユリカモメを狙っているのではないか……そうであって欲しいものだ」。無際限に分岐・増殖してゆくありえた別の「人生」に僕たちは耐えきれない。

 失踪後の天野は犬、猿、雉を率いて(RPG同様にパーティ編成し)、アゲハの幼虫とネルヴォサを夜な夜な盗み出し、近くの無人の小島へとせっせと運んでいた。体制の方針に逆らい、海鳥たちが自由に蝶や幼虫を啄める「もう一つの花畑」を構築しようと画策するのだ。人工的な観光地化に抗して、あるべき生態系を人工的に創造しようという、あまりに再帰的なそのプロジェクトを彼は「自分のやるべき仕事」=「天職」と捉える。「この世界」の外部へ超出せんとする営み、それは原義的に革命そのものである。半年ほどで実現し、つかの間の「楽園」を堪能するも、発覚。最後は謀反者として斬首が執行される。

 さて、公開処刑のクライマックス、現町制の花や蝶を寿ぐ唱歌が歌われ、ふだん無気力な酔いどれたちは処刑と町政に抗議する意味で旧時代の海鳥と漁師の唱歌を合唱する。隣接的に挿掲された二曲の歌詞が小説全体を内側からぐるっと呑み込んでしまう。この種の形式上の実験は前作『アルタッドに捧ぐ』を継ぐものだ。本作ではこのほか、鳥打ちの仕事を監視する「監督官」の手帳や沖山の日誌を抜粋したり、作中で言及されたレシピを巻末に延々十頁分添付したりと(いずれも数的データのセーブを目的とする――RPG!)、自由自在にありえた別の日本小説のフォーマットを読者に感知させる。ここで「小説」は「人生」と重合する。

 唐突に戯曲仕立てにスイッチするくだりなど、日本の近代小説の出発期にスタイル未確定であるがゆえにしばしば見られた無形式の形式を髣髴とさせるし、手帳の引用に移る間際「こっそり覗いてみることにしよう」と断るあたり、二葉亭四迷『浮雲』が語り手を実体的に現前させてしまう「一所に這入ッて見よう」を想起させる。“形式以前の無自覚”を自覚的に再演することで、一三〇年にわたる近代文学の履歴と蓄積が本作に呑み込まれる。そんなメタ小説的な構造を備えているといってよければ、本作もやはりどこまでも(日本の)小説をめぐる小説なのだ。「この世界」の外部へと超出する営み、それは革命であり、同時に小説の謂いにほかならない。

――それにしても、酒場に墓場に洞窟とくればRPGっしょ、と連想して止まらないのは、僕自身の世代的な性(さが)なんだろうなぁ。

新潮社 新潮
2016年5月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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