西国(にしこく)疾走少女

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燃え殻×一木けい対談を特別掲載中
男はみんな“元カノ成分“でできている 女は“今カレを上書き”する

***

 イカの胴体に手を突っ込んで軟骨をひっぱり出した。粘着質な音が響いたわりに水分は流れてこない。残っている内臓をこそげ出そうと、もう一度手を差し入れた。あれ、と思う。ざらりと手に吸い付いてくる感触。軟骨は取り除いたはずなのに、そこにもうひとつ硬い何かがある。強くつかんで、一瞬ためらった。不安の波が押し寄せる。いったい何が出てくるのだろう。

 ひと息に引いてみる。

 ずるりと引きずり出したものには、目玉がついていた。肌が一気に粟立つ。とっさに手放したそれが、シンクにごろんと転がった。

 丸々と太った魚だった。表面を覆う鱗の一枚一枚が、照明を反射して光っている。眼球はいきいきしている。でも死んでいた。

 速い鼓動のまま、魚をじっと見下ろす。

 イカの体内に入りきるぎりぎりの大きさだ。イカの口はちいさいのに、この魚は、どうやってここに入り込んだんだろう。いや、それよりも、どうやってここに留まったんだろう。イカは知っていたんだろうか。自分の中に、ずっとそれがあることを。

 まな板の上、イカの胴から、体液があふれ出てくる。堰(せ)き止めていたものがなくなり、どろりと伸びて、広がる。白く濁った液体は、辺りに青い匂いを放った。

 イカなんて何度もさばいたことがあるのに、魚が出てきたのははじめてだった。はじめての経験はいくつになっても怖れを伴う。ふっと、桐原のことを思い出した。

 脳の奥から、あの日々がじわじわと染み出してくる。最初は雪解け水のようだったのが、徐々に勢いを増し、ついには濁流となってわたしの脳をめぐりはじめる。

 となりで笑っている桐原、バス停にいて遠ざかっていく父の姿、理不尽な大人たちの言葉。遠くから、自分の息切れが聴こえてくる。

 中学生だった。わたしはスカートをひるがえし、夜の西国分寺駅に向かって疾走していた。恐怖などない。もうすぐ桐原に会える。ただその悦びだけ。サバンナを駆けめぐる動物のように、前を見て地面を蹴っていた。頬が熱(ほて)り、吐く息が湿った。あのころ、桐原といないときはいつも走っていたように思う。ゆっくり過ぎてほしい時間なんて、桐原といるときだけだった。月も星もない暗闇を突き進んでも、不安はなかった。まわりの風景もどうだってよかった。怖い大人の存在など頭をよぎりもしなかった。まだ、誰かをうしなうことについて真剣に考えたこともなかった。

 耳元でよみがえる息切れは、いつのまにか自分のものから桐原のそれに変わっている。

1

 当時のわたしは、母と妹と三人で暮らしていた。西国分寺駅から十五分ほどの場所にある一軒家で。一軒家といってもおもちゃみたいな木造の平屋で、部屋はふたつしかなかった。細い路地をはさんだ向かいには大家さんの畑があり、その先に武蔵野線の線路が走っていた。電車の音は夜遅くまで響いており、そのたびに我が家は軽くゆれた。右隣にはとある宗教の信者一家が暮らしていて、土曜の夜にはいつも荘厳な宗教歌が聴こえてきた。左隣にはうわさ好きの老婆が住んでおり、父が家を出て行ったときは何かと詮索してきた。それを母が露骨にいやがったので、それ以来、老婆と交流はなくなった。とにかく狭くて古い家だった。トイレはかろうじて水洗だったが和式で、なぜかトイレットペーパーホルダーが後方にあった。そんな家に、わたしは小学校六年から高校一年まで住んだ。

 桐原を思い出すとき、まず脳によみがえるのは喉仏だ。まさにできたてのそれは、他の男子より妙にでっぱって色っぽかった。桐原が歌うとき、笑うとき、つばを飲み込むとき、そのでっぱりは、コリ、コリ、と上下に動いた。なまめかしく、ゆっくりと。

 中二の四月、わたしの左の席に腰を下ろしたのは金井という陽気な小太りの男子だった。金井とは一年のとき委員会が同じだった。金井はいつものように下ネタを二、三しゃべってから教室を見回し、自分の列の後方に知り合いを見つけ手を振った。手をあげ返した彼のことを「桐原っつうの」と金井は言った。「一年の三学期に私立中から編入してきたんだよ」

 生徒たちの椅子がガタガタと鳴って、わたしと金井は前を向く。中年の理科教師が入ってくるところだった。またこの人が担任かと暗い気持になる。わたしは一度、彼に家の事情を相談したことがあった。個人面談のとき、前のめりで親身になって聴いてくれたからだ。担任は言った。「じゃあ今日、おれがおうちの人に電話してやろうか」その瞬間、おおげさでなく彼に後光が差して見えた。わたしは、すがれる手を探していたのかもしれない。その日は帰宅してからずっと電話を見てすごした。電話は結局鳴らなかった。翌日、わたしの顔を見て担任は「あ」と気まずそうな表情を浮かべたが、何事もなかったように授業に入った。それ以来わたしは大人を信じるのをやめた。

 担任がチョークで自分の名前を書いているすきに、さっき見た桐原という男子をふりかえる。何か心にひっかかるものがあって、その正体を確かめたかったのだ。桐原の後ろの席の子が、黒板を見るために身体を横にずらしている。桐原の脚は机に納まりきらず、通路にはみ出していた。朝の味噌汁に入れるアサリみたいに。そのはみ出した分くらいしか他人を受け入れない、容易に心を開かない頑なさが、上履きの先からにじみでていた。その後彼には教室でいちばん高い机が与えられたが、それでもいつも窮屈そうだった。

 なぜ桐原に惹かれたのか。どんなに考えをめぐらせても、色気としかいいようがない。色気を感じる相手は人それぞれだろうが、それは感じるものであると同時に、細胞や遺伝子の叫びのような気がする。その男とつがえという自分の核からの命令。でも中二のわたしがそこまで考えたはずはなく、ただ生き物のメスとして、順調に繁殖への準備をしていたということだと思う。

 最初の席替えで、わたしたちはとなりの席になった。番号の書かれた紙を手に机を移動すると、そこに桐原がいたので耳が熱くなったことを憶えている。机を合わせると、その段差のあまりの激しさに、同じ班になった金井が手を叩いて大笑いした。そういうとき桐原は「うるさいよ」と笑いながらたしなめるのだった。桐原のリュックは大きく、よそよそしかった。消しゴムは清潔で未知。桐原に属するものすべてがまったくの異物で、艶めいて感じられた。

 桐原は長い脚を持っていたが、走るのは速くなかった。バスケ部でも補欠だった。放課後、校庭を走る桐原を、教室から眺めた。疲れてきたときにうっすらひらく口が色っぽかった。桐原の黒髪は毛量が多く、すこし縮れて扱いにくそうだったのだが、その髪から汗のしずくが飛びちる様は、スローモーションでわたしの胸に染みこんだ。

 二学期、となりの席になったのはまた金井だった。桐原とは遠く離れてしまいざんねんだったが、休み時間になると彼は金井のところへ雑談しにくるようになった。わたしがいないとき、桐原はわたしの席に座っている。それは椅子だったり机だったりしたが、彼の身体とわたしの持ち物が触れている面を目にするだけで胸が高鳴った。戻ってきたわたしに気づくと桐原は「あ、ごめん」と言って立ち上がる。桐原の腰のベルトの位置は、クラスの誰よりも高かった。

 そのうちに、桐原と金井とわたし、それからミカという女子バスケ部の子と四人でいることが多くなった。しゃべるのはいつも金井とミカ。ふたりは同じ小学校から来た顔なじみだった。技術の時間には、よくミカが林檎味の大玉のアメをくれた。シュワシュワするそれを舐めながらわたしたち四人は、木材を削ったり何かの図を描いたりした。ミカは茶髪でこっそりピアスを開けていて、よく授業中にウォークマンで音楽を聴いていた。イヤフォンを肩からブレザーの袖に通して、ひじをついていれば傍目にはわからない。問題は指名されたときだ。ちかくにいる子がミカをつついて教えるのだが、そういうとき音楽が耳に流れているままのミカは「ハイッ!」と必要以上に大きな声を出すので、たまにばれてウォークマンを没収されていた。金井は英語の時間に「6」と言わなければならないときに必ず「セックス!」と言ってクラスの笑いと先生の怒りをかっていた。わたしと桐原はそんなミカや金井をなだめる役回りだった。職員室へ行くのにつきあったり、まったく授業を聞いていない彼らにノートを見せたりするのもわたしと桐原だった。

「二階ついてきて」とミカはよく言った。バレー部の高山先輩の姿をこっそり眺めるために、三年生の廊下をあてもなく歩いた。自分だけミカの好きな人を知っているのも悪いかと思い「わたしの好きな人は桐原なんだ」と言うと「知ってる、由井(ゆい)を見てればわかる」と笑われた。

2

 中二の三学期は、幕開けからして気の滅入るものだった。始業式に桐原は欠席で、さらに、家に帰るとポストに茶封筒が入っていた。差出人は聞いたこともない地名の役所。いやな予感がする。みぞれ混じりの雨が運動靴の先端を濡らしていた。

「ただいま」

 声をかけると、せんべい布団の中で漫画を読んでいた妹の梢(こずえ)は目だけこちらに向けて「うん」と言った。毛布と敷布団の隙間から、こもったような甘酸っぱい匂いがする。畳には取り込んだ洗濯物が何かの巣のように山になっていて、シンクには、濡れたまま長い時間放置された丼やプラスチックのカップが積み重なっていた。

 黄ばんだふすまを開けると、居間のこたつの上に母のメモがあった。「おかえり。米、パン、ビール。よろしく」隅にちょこちょこっとわたしの似顔絵が描いてあり、腹が立つくらい特徴をとらえている。手早く着替え、通学用シャツとソックスを手洗いして干してから、傘を差し自転車で生協へ行った。買い物を済ませて戻ってくると、米を研いだ。それからこたつに入り、生の食パンを食(は)みながらそっと茶封筒の糊を剥がした。

 父の生活保護申請に関する書類だった。内容は金銭的な援助ができないかどうかの確認。一番下に「万が一、金銭的な援助がむりでも精神面での支えをお願いします、手紙を書くとか電話をかけるとか訪ねて行くとか」というようなことが書いてあった。脳みそが爆発しそうな感覚があり、続いて猛烈なめまいに襲われた。ああ、と声がもれてこたつにつっぷす。

 それから数時間後、同じ場所で母がビールをのんでいる。傍らにはあの書類があり、母はペンを指に挟んだまま鼻をすすっていた。うすく開いたふすまから漏れてくるひとすじの光がわたしの手の甲に乗っている。居間には低くコルトレーンが流れていた。テナーサックスの旋律に紛れ込ませるように、母は声を殺して泣いているようだった。そっとふすまを閉じて、音を立てないように窓際まで歩く。カーテンの隙間から、粉雪が舞っているのが見えた。視界がひどく悪い。武蔵野線が通過すると雪はぶわっと舞い上がり、また降りてしんしんと積もった。しばらくその景色を眺めていた。

 肉体が、内側からパンと張っている感覚があった。日々変わっていくわたしは、この自分こそが自分であるという実感がない。自分の本当に欲しているものが何かもわからない。でもとにかく外へ出たい。酸素が薄くて息苦しいから。壁を爪で削ってみる。砂がポロポロ落ちてくる。外に出たい。夜の街を歩いてみたい。西国分寺駅まで行って帰ってくるだけでもいい。夜の空気は自由な感じがする。日常は不自由ばかりだ。でもわたしはまだ十四歳で、ひとりでは生きていけないからここにいるしかない。自分では何も変えられない。自分ひとり養えるくらいのお金を、稼げるように早くなりたい。ほしい服を買って、食べたいものを食べて、いっしょに暮らす人と仲良くしていたい。

 朝になると干した衣類の乾き具合を確認する。シャツは乾きやすい。問題はソックスだ。天候によっては乾き切らない。仕方なく湿ったままのソックスを履いて、暗澹たる気持で運動靴に足を入れる。父の生活保護に関する書類を、母にたのまれてポストに投函した、その足でわたしは二泊三日のスキー教室へ行った。

 集合場所の校庭に行くと、桐原がはじめてメガネをかけていた。縁のない、すっとしたデザインのそれは彼の横顔をさらにうつくしく見せた。一気に世界がきらめく。

 見惚れていると、ちょっと聞いてよとミカが体当たりしてきた。

「昨日衝撃的なもの見ちゃった」

「なに」

 ミカは周囲をさっと見回すと、声を落とした。

「高山先輩が西国(にしこく)の駅前にあるスーパーでエロ本立ち読みしてた」

 笑うのと同時に号令の笛が鳴って、バスに乗り込んだ。ミカにもらった林檎味のアメを舐めながらわたしたちは最後列でUNOに興じた。金井がわたしと桐原を交互に見て、にやにや笑いながら言った。

「おまえたち、もうやったの?」

「あんた最低」とミカが金井の腹をぶった。「やるわけねーじゃん、つきあってもないのに」

「ふん、ミカはお子様だな」金井は大人ぶり「やるときって、こういう音がするらしいよ」と両手を打ち鳴らしたり「あれを二十回やると子どもが一人できるらしいから、ちゃんと明るい家族計画しろよ」とよくわからない助言をしてきたりした。

「デタラメばっか言ってんじゃねーよ」

「まじだってミカ。ほら、ここに書いてあんじゃん」

 金井はかばんからぱっとエロ本を出して開いて見せた。

「こんなもん、スキー教室にまで持ってくんじゃねーよ」

「オレにとってこれは刀。武士は丸腰では戦わないからな」金井はキリッとした顔つきで胸を張った。

「その使い方合ってんの? あたしばかだからわかんないけど」

「違うんじゃないか?」と桐原が笑った。「な?」

「たぶん、違うと思う」とわたしも同意した。

「あんたさあ、こういうの、レジに持ってくとき恥ずかしくないわけ?」

「全然。堂々と持っていく。おい桐原、西国の駅前にちっちゃいスーパーあんだろ、あそこ、おすすめだぞ。なんか妙にエロ本が充実してんだよ」

 顔をしかめたミカの背中を、心をこめてさすった。

「これ、桐原にも貸してやるからな」

「俺はいいよ」

「ええかっこすんなよ。あ、でもオレ人妻専門で、中学生とか高校生じゃイケないんだよ。だからこのエロ本じゃ、桐原むりかも。人妻様はまじですげえんだ」

「しらねーよ」ミカがエロ本をひっつかんでバスの真ん中に向かってぶん投げた。金井が慌てふためいた拍子に吹き出したアメが、通路を転がり落ちていく。

 スキーのレベル分けで、桐原は最上級のA、わたしは超初心者のDクラスだった。食事の席も決められていて、びっくりするくらい遠かった。

 スキーウエアも手袋もブーツも、もどかしいほど分厚いのに、簡単に雪が染みてきた。耳も鼻も指先も、濡れてかじかんでじんじんした。ゲレンデに大音量で流れるポップスを聴きながら、わたしは目で桐原ばかり探した。

 最終夜、夕食の食器を下げるときに「今夜ここにふたりで来てみない?」と桐原に提案した。その声は高揚した生徒たちのざわめきにかき消された。「ん?」と言って桐原は、腰をかがめるようにして耳を近づけてきた。わたしは足がつりそうなくらい背伸びして、同じことを繰り返した。胸がつぶれそうにどきどきした。なんでそんな案が出せたのかわからない。口から言葉がこぼれ出てしまった。急に恥ずかしさがこみあげてきてうつむくと、畳の上、桐原のソックスに指の形が浮いていた。その大きさにまた心臓が跳ねる。金井がぬっとあらわれ、親指を立てながら長テーブルの向こう側を通り過ぎていった。桐原はびっくりしたような顔をしたが、すぐにあのいつものゆったりした笑顔になって「いいよ」とわたしだけに聞こえる声で言った。

 消灯後しばらく経ってから、見回りに来る先生の目をぬすんで、部屋を出た。廊下にはくすんだ赤色のカーペットが敷き詰められている。湿ったような、黴臭い匂いがした。足音をさせないように歩いて、階段をおり、大食堂に行った。

 障子をあけると、夕刻とは全然違う風景がひろがっていた。数えきれないほどあったテーブルはすべて折りたたまれ、壁に立てかけてある。中へ進んでいき窓辺に立つと、しんとしずまりかえった雪山が見えた。きれいな月が出ている。遠くにヨーロッパのお城のようなものがあると思って目をこらすと、それは黒く陰った樹木だった。

 背後で障子があいて、ふりかえると桐原が立っている。縦に長いシルエット。目が合うと彼はホッとしたように笑い、何も言葉を発さずに長い指を部屋の隅の方に向けた。わたしはうなずいてそちらへ向かう。障子を後ろ手に閉め、桐原がスリッパを脱いで上がってくる。桐原の体重で畳がきしむ。距離が徐々に近くなる。その一歩ごとに興奮で上あごが痺れた。わたしたちはくすくす笑いながら歩いて、大きな部屋のいちばん端に腰を下ろした。距離を置いて横にならんで壁にもたれ、他愛もないことを話した。桐原はあごも喉も手の指もひざも尖って硬そうで、完成に近づいている肉体、という感じがした。

 あの日しゃべった内容はほとんど記憶から消えてしまったが、ひとつだけ明確に憶えていることがある。それは「うしなった人間に対して一ミリの後悔もないということが、ありうるだろうか」というものだ。桐原が発した問いだった。なんの話からそういう流れになったのかわからない。わたしがどう答えたかも憶えていない。答えてすらいないかもしれない。あのときは、まだ誰もうしなったことがなかったから。けれど桐原は確かにそう訊いた。その一文を、わたしはその後の人生において、何度も、折りにふれて思い出すことになる。

 真夜中の大食堂で、桐原の声は、わたしの耳から入って脳に送られ、身体いっぱいに満ちた。話し方のくせや、声のトーン、えらぶ言葉。このあとしばらくだれとも話さないで、桐原だけをわたしの中に残しておきたいと思った。

 どれくらいの時間が経ったのか、廊下が騒がしくなってきた。大人たちの怒鳴るような声がして、スリッパの音が高く行き交う。桐原とわたしは顔を見合わせた。部屋を抜け出したのがばれたのだとわかった。出て行ったほうがいいねと桐原が立ち上がり、入り口まで歩いていった。小走りについていく。桐原が、迷いのない、流れるような動作で引手に指をかけた。

 その瞬間、障子が向こう側からばっとひらいた。

 こめかみに血管を浮かせた担任が目を剥いている。わたしたちが何か言うより先に担任は、大きく振りかぶって目の前にいた桐原を拳で殴った。それから同じようにわたしのことも殴った。暴力には免疫があったのでさほどの衝撃はなかった。気持にはなかったが、身体は吹っ飛んだ。桐原は飛んだわたしをふりむいてから「女の子に暴力ふるうのってどうなんですか」と歯向かった。そのために今度は腹部を蹴り上げられるはめになった。それでも桐原は止めなかった。

「ルールを破ったからって、暴力をふるっていいことにはなりません。弱い者を力で押さえつけるなんて、先生は卑怯だ」

 睨み合う桐原と担任の横で、わたしはかつて味わったことのない多幸感に包まれていた。桐原がかばってくれた。強い大人に屈せず向かっていってくれた。わたしが傷つくことに対してノーと言ってくれた。自分がなにか、もろく壊れやすい、大切なものになったような気がする。

 ぽた、ぽた、という音に気づいて桐原が全身をこわばらせた。ふり返った彼が見たのは、畳に落ちるわたしの鼻血だった。桐原の目に強い怒りが灯る。鳥肌が立った。憤怒に支配された桐原は、ぞくぞくするほど妖艶だった。痛みなど意識を集中させれば消せるし、桐原がわたしのために怒ってくれているし、そんな桐原は色っぽいしで、わたしに切迫感はまるでなかった。ただ桐原を見ていたかった。桐原がふるえる唇をひらいて何か言いかけたとき、担任のうしろから体育教師がやってきて、桐原をどこかへ連れて行った。

 わたしは担任に上腕をつかまれ、むりやり歩かされた。廊下に、なにかの目印のように血のしずくが点々と残った。入れと言われ背中を押されてひざをついたのは、狭い和室だった。担任はドアを閉めると唾を飛ばして怒鳴った。

「あんなところにふたりでいたら、男がどういう気持になるかわかってんのかっ!」

 大笑いしそうになった。先生はどんな気持になるんですか? どうして大人たちはいつも、男の気持についてばかり話すのだろう。この世界は男の気持で回っているのか。

 感情の昂(たかぶ)った担任は、朝まで同じ説教をくりかえした。「桐原とおまえはこういうことをやるタイプじゃないと思ってたよ。おまえたちは先生の信頼を裏切ったんだ。おまえたち、これからそういう目で見られるんだよ」親にも連絡するからなと脅してくるので、はいと答えたら「いいのかよ」と拍子抜けしたような顔になった。「親父さんに連絡がいったら困るだろ」とも言う。こんなときだけ本当に電話してくるならそれはそれでおもしろいと思った。彼の言葉はなにひとつ響いてこなかった。

「おれも親のはしくれだからね、おまえのうちでいろいろあって大変なのは理解できるよ。おまえが素直になれないのもわかる」担任はときおり、わたしを懐柔するような甘い声を出した。こういう発言がはじまるたびに脱力した。大人がこんな風に話しだすとき、あとに何か意味のある内容が続くことはまずない。「わかるけどね、この世に生まれただけでありがたいと思いなさいよ」ほらね。わたしは担任を見ながら見ないで、心を無にして聞き流す。「しかもこんな健康体に産んでもらっといて。それだけで感謝すべきことなんだよ。おまえ、勉強だってできるじゃないか。こんなことで内申落としたらもったいないだろう」

 この人はいったい何を言っているのだろう? 話にならない。けれど自分の意見を言うことはしなかった。無駄だから。

 翌日のレクリエーションには桐原とわたしだけ参加できず、それぞれひとり、和室で反省文を書いていた。謝れと言うので謝るだけ。くだらない。なんてくだらない。目を閉じて余韻を楽しもうとしても、せっかくわたしの中をいっぱいにした桐原の声に、担任の甲高い罵声がかぶさってしまう。足音が聴こえてくる。さっと正座して神妙な顔を作り、えんぴつを動かす。担任は「殴られる頬より殴る手の方が何倍も痛いんだぞ」と意味不明なことを述べたあとに「まあ今回のことは桐原が誘ったようだから、おまえはこれでいいよ」と反省文を受け取った。

 ペナルティとして、桐原とわたしは帰りのバスの最前列に座らされた。運転席のまうしろで、桐原が窓際。わたしが通路側。乗り込んできた金井がわくわくした顔で「ついにやったか」と耳打ちしてきた。「つきあってないのにやるかっつってんだろ」とミカが金井の後頭部を思い切りはたいた。バスの中でクラスメイトはカラオケやゲーム大会で盛り上がっていたが、わたしと桐原は腫れた頬を隠すようにひじをついて黙っていた。どうということもなかった。そもそもこれは全然、ペナルティになっていない。ゆうべの大食堂より距離が近くてむしろうれしかった。

「そろそろ」と桐原がささやくように言った。桐原がしゃべると、わたしの耳はそちら側にひきつれた。車内がどっと笑いで震えた。その陰でひっそりと桐原は言った。

「そろそろつきあおうか」

 放課後、待ち合わせてふたりで帰っていると、金井に「時計の長針と短針みたいだなあ!」とからかわれた。桐原は、優しい目でわたしを見おろした。手は大きく、指は長く、動きはゆったりしていた。豊かな黒髪のえりあしは清潔で、着ているシャツも常にパリッと真っ白だった。朝も夕もしゃべった。母のいない時間には長電話もした。公衆電話からかけることもあった。それでも足りなかった。わたしたちはもっと近づく方法を知らず、ただむさぼるように会話した。いつも電話を切るのに時間がかかった。せーので切ろう、と言ってもどちらも切らない。じゃんけんで決めることもあった。そうしてついに桐原が切ってしまうと、その瞬間、茫漠とした恐怖に全身が支配されて動けなくなった。もしもわたしが先に切ってしまうとしたら、桐原はこういう思いを抱くのか。そう思うと次にはもっと切れなくなった。

 わたしにとって桐原は、いいことなどなにひとつないこの世界ではじめて得た宝で、生きているという実感そのものだった。

3

 試験前にはすこし遠回りして帰った。中三に上がって急に数学が難しくなった。公式の導き方がよく理解できないと話すと、桐原はガードレールに腰掛けて、ノートに記しながら説明してくれた。薄い、整った筆跡で。ブレザーの袖口から見える桐原の手首は、外側の骨がぼこっと出ていた。破って渡してくれたそれを、わたしは筆箱に大切にしまった。

 桐原が立ち上がると、わたしに当たる太陽の光がすくなくなる。

「背の高い人は、いっぱい寝ないといけないんだって」

「へえ、知らなかった」

「昔うちのお父さんが言ってた。重力に逆らう高さがどうとか、そういう理由だったと思うけど。もっとちゃんと聞いておけばよかった」

「いや、なんか、それはわかる気がする」桐原はうなずいてから「お父さん頭いいんだな。いろいろ教えてくれるんだな」と、目を細めて言った。

 武蔵野線の高架下で桐原とわかれて、幸福百パーセントで家に帰ると、梢が布団を頭からかぶって泣いていた。傍らには鳴りっぱなしの電話。こんな風に鳴らすのはだれか、訊かなくてもわかった。一気に絶望百パーセントに落ちる。

 受話器を取ると、父の妹である叔母は、自分の身内が生活保護を受けるなんて世間様に顔向けができないとまくしたてた。わたしはただ聞いた。この人に何か意見する気力など、とうの昔に消え去っている。言いたいことを言ってしまうと、叔母はネコナデ声を出した。

「あんたが生まれたときあたし、本当にうれしかったの。自然と涙が出たのよ。あたしには子どもが産めないから、あんたをたいせつにたいせつに育てようって誓ったの」

 まただ。頭の中でアラームが鳴り始める。危険。大人がきれいなことを言い出したら危険。

「正味の話さ、あんたが生まれなければ兄さんはアメリカに留学して研究を続けられたわけ。それを蹴ってまで子どもを育てる道を選んだのよ。知ってる? あんたが生まれたとき、兄さん、新生児室の窓に張り付いて離れないほどよろこんで」

 叔母はわたしの罪悪感を刺激するのが最高にうまい。プロだ。堕(お)ろせという祖母と叔母の命令を母が聞き入れて、わたしがこの世に誕生しなければ、父は学者でいられた。研究のためにならもっと身体や脳を大切にして、健康に留意した生活ができた。けれどわたしたちを育てるためには自分を殺して働かなくてはいけないから、酒に走った。走って溺れて沈んだ。

「あんたたちのために借金までして会社を作って」

 その会社が潰れて残った莫大な借金を母がひとりで返していることを、叔母は知らないのか。それとも見たいものだけを見ているのか。

「育ててもらった恩も忘れて親をすてるなんて、恥知らずにもほどがあるよ。あんたも親になればわかる。人ひとり大きくするって大変なことなんだよ」

 なんて言ってるの、と梢が涙目で問うてくる。シーツの敷いてない布団は涙でぐしゃぐしゃになっている。その辺にあったペンをとってプリント裏に書いた。「毒オバ暴走特急」梢はぷっと吹き出す。これ以上叔母の声を耳に入れていたらおかしくなりそうだったので、感覚を遮断し、夕飯を作る手順を頭に浮かべた。

「…ね、親戚みんなそう言ってるのよ。だいたい…のおいちゃんにでも知られたら大変なことよ。親戚中に……それで…これが肝心なことなんだけど……あたしはたぶん…なの。もう長くない…」弁当のおかずも考える。冷蔵庫はほとんどからっぽだ。ああ、シャツと靴下を洗わなくちゃ。そうだ、桐原がくれたメモがある。今夜はあれをタイルに貼って、眺めながら食器を洗おう。「だから叔母孝行するなら今のうちよ……ねえ……年上は敬わなきゃ。聞いてる? 年上は、敬わなきゃ!」

 大声に意識が無理やり引き戻される。敬う人間くらい自分で決めます。反論する。心の中だけで。反論もできない関係など発展しようもないが、面倒だから。すこしでも意に沿わないことをすると詫びか感謝を強要する叔母に、もう本心を伝えることはない。

「ぜんぶ、あんたのためを思って言ってんのよ。あんたはひとりで育ったわけじゃない。ひとりで生きてるわけでもない。それに」

 タコが墨を吐いている様子を思いうかべる。これは墨。墨だ。タコは墨を吐くものだ。

「親をみすてたりなんかしたら、いつかひどいばちが当たるよ」

 涙が流れていることに、しばらく気がつかなかった。梢がわたしの手をぎゅっと握った。はっとしてわたしも握り返す。ふたつの手はふるえているけれど、しっかり繋がればふるえは倍増しない。ぴたりと止まる。これ以上ない強さで、わたしたちは手を繋いでいる。

4

 夜の駅に立っていても、桐原はくっきりと際立ってうつくしかった。二学期のあいだに、桐原はさらに背が伸びたようだ。会えた瞬間、家を抜け出すときの緊張が吹っ飛んだ。

「さむいね」とわたしは肩で息をしながら笑った。夜に会うのがはじめてで、照れくさかった。

「なんでそんな薄着で来たの」笑いながら言って、桐原は着ていたジャンパーを脱いだ。トレーナーのそでがめくれて、腕時計が見えた。黒くてごつごつした、重そうな時計。

 着せてもらったジャンパーは、軽くて温かかった。ほんのり香水のような匂いがした。胸のところに、桐原の好きな、外国のバスケットボールチームの赤いロゴが入っている。目的もなく、ならんで歩いて、笑って、桐原の顔を見上げた。桐原はめずらしくよくしゃべった。アメリカのラップが好きでよく聴いているという。わたしも聴いてみたいなと言うと「いいよ」と進行方向を変えた。

 桐原の家は大きな二階建てで、車庫があって、白い高級そうな車がとめてあった。玄関の外に灯りがともっていたが、室内は真っ暗だった。道路をはさんだ向かいにちいさな公園がある。わたしはそこに入り、ブランコをこぎながら桐原を待った。

 三分ほどで出てきた桐原は黒いパーカーを着て、手に袋を持っている。わたしたちはまた歩いて、西国分寺駅まで戻った。自動販売機の前で桐原は止まり、缶入りコーンスープを買った。がこんと落ちてきたそれを取ると、よく振ってからプルトップを開けて差し出してくる。わたしたちはガードレールに座って、それを交代でのんだ。立ちのぼる湯気で桐原のメガネがくもった。ふたりの笑い声が夜に吸い込まれた。オリオン座が移動するくらい長い時間、そこにいた。

 袋の中にはCDのほかに、グレーの布袋が入っていた。あけてみるとチョーカーだった。真ん中にちいさな星がひとつ、光っている。誕生日、合ってる? と桐原は訊いた。胸が詰まってすぐには言葉が出なかった。我が家では誰かの誕生日を祝う習慣などなかった。プレゼントというものをもらったのは、それが生まれてはじめてだった。クリスマスもひな祭りもない。そういうものだと思っていた。もったいないから、帰ってつける。声を絞り出すようにして言うと、桐原はうれしそうに笑って横顔でうなずいた。

「いま何時?」

「もうすぐ十一時。帰る?」

「うん。帰りたくはないけど」言ったらかなしみが増幅した。

 桐原はしばらく何か考えるように黙ってから、右手の指を自分の左手首にあてた。慣れた手つきで時計をはずすと「今度会うときまで持っててよ」と言った。

 時計はやっぱり重かった。重みがしあわせだった。家まで送ってくれた帰り道、街灯に照らされた桐原は紛れもなくわたしの光だった。部屋に戻るとまずチョーカーを首にはめた。窓に映して眺める。ゆるむ頬を止められなかった。手首に桐原の時計、耳からは桐原の好きな音楽が流れてくる。ジャンパーを毛布代わりにして、わたしはねむった。信じられないような幸福の中で。

Book Bang編集部
2018年1月31日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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