弟とは血が繋がっている。この世界で、誰よりも近い人間だ。
 けれどそんな存在でも、やはり自分とは別の人間なのだ。
 他人だから分からない。他人だからこそ分かることがある。
「うれしかったんだよな」
 しばしの沈黙のあとで、克彦が言った。
「今朝、兄貴に会って、兄貴と一緒に何か出来るって思ったら。なんていうか、子供の頃みたいだったよね?」
「そうだな」
 一緒に自転車を乗り回し、遠くまで出掛け、追いかけっこをして、ときには迷惑をかけた大人に謝る羽目になる。それは二人の子供時代そのままだった。
「ホントに、そうだ」
「またさ、一緒に遊ぼうよ」
 子供に戻ったような口調で、克彦が言った。
「俺、やっぱり兄貴と遊んでるのが、一番楽しいんだよな」
「お前、何言ってんの」
 そう言いながら、思った。
 やっぱりこいつには敵わない。自分の気持ちを素直に口に出すなんて自分には出来ない。自分なら、相手がどう思うだろう、変に思われたりしないだろうか、そんなことを考えて、ためらってしまう。
「いい大学行ってんだから、面白いやつ、いっぱいいるだろ」
 俺もそう思う。お前と遊ぶのが一番楽しい。その簡単な言葉すらやっぱり口から出てこない。
「でも、頼りになる兄貴は、兄貴だけだから」
「俺のどこが頼りになるんだよ」
「なるよ」
 克彦は、驚くほど真面目な顔をしていた。
「俺、小学生の頃、引きこもってたこと、あっただろ?」
 そんな記憶はなかった。弟はいつも人気者で、人の輪の中心だったはずだ。
「そのときも、兄貴は学校から帰ってきたら、ずっとそばにいてくれた」
 おぼろげな記憶がよみがえる。確かに、小学生の一時期、弟は学校に行けなくなったことがあった。
 両親は「克彦は繊細だから」と心配して、あちこちの心療内科を連れまわったが、原因は分からなかった。
 そうするうち、弟はますます塞ぎこむようになった。
「怖かったんだ」
 昔を思い出したのか、克彦は苦い笑いを浮かべた。
「親も、友達も、先生も、なんでか分からないんだけど、みんなが化け物みたいに見えて。でも兄貴だけは平気だった。覚えてる? あのとき、なんて言ってくれたか」
 柿谷達彦は首を振った。確か、学校に行かなかったのは二ヶ月ほどで、そのあと、また自然に学校に通うようになったはずだ。
「『俺が守ってやる』って」
 それから克彦は、明るい笑いを浮かべた。
「だから何があっても大丈夫だって。それで、高校入ったらボクシングジムとか通い始めてさ」
「覚えてないよ」
 確かに、格闘技が好きになったのは小学生の頃だった。もう少し大きくなったら本気で習おうと思って、高校に入ったのを機にジムに通い始めた。単に、それだけのことだと思い込んでいた。
 そうじゃなかったのか、と柿谷達彦は少し、呆然とした。やはり他人のことなど分からない。でも、それ以上に自分のことも分かっていなかった。
「この人、単純だなあって。単純だけど頼りになるなあって、思ったんだよね、あのときに」
「悪口かよ」
 克彦が、いきなり背中どやしつけた。
「痛いよ!」
「兄貴はさ」
 その言葉が聞こえなかったように、弟は言った。
「ずっとそのままでいてよ。ちょっと間が抜けてて、お人よしで、でも頼りになる兄貴でさ。それが兄貴のいいところなんだから」
 柿谷達彦は苦笑した。
 人生は、うまくいかないものだ。変わりたいと、自分はずっとそう願い続けてきたのに、一番近い他人であるところのこの弟は、変わるなという。
「まあ、頑張るよ」
 変わるために頑張るのか、変わらないために頑張るのか、自分でも良く分からなかった。
 けれど、それはどちらでもいいような気がした。
「あ! そうだ!」
 克彦が大声を上げる。
「な、なんだよ、どうした?」
「忘れてた! 俺、アイス食いたくて、家出たんだった。まだ食ってないよ! コンビニ寄ろうよ、コンビニ!」
 騒ぎ立てる弟にあきれながら、思った。
 とにかく、やるべきことをひとつずつやろう。できることを、ひとつずつやろう。
 弟とアイスを食べるようなことでいい。
 ひとつずつ、ひとつずつ。そうして過ごしていれば何かが見つかるかもしれない。自分だけの何かが。
 その何かが何なのか、今は分からない。けれど、それは見つけてから、また考えればいい。
 そう、人生は何が起きるかわからないものだから。

(つづく)