三日目【16】 川西淳郎の体は、本人の意志とは関係なく動いた。

タニンゴト

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前回のあらすじ

最愛の妻を喪い自殺を決意した淳郎のもとに、大学時代の友人である日高と香川が突然訪ねてくる。3人で飲み明かしたうえ、翌日は競馬場にまで付き合わされた淳郎。やっと友人たちから解放されたが、今度は飛び降りようと思っていた橋が事故で封鎖。淳郎は気を取り直して山へと向かい、ついに理想の場所を見つける。

Photo/Tatsuro Hirose
Photo/Tatsuro Hirose

 それは川の向こう岸にあった。
 対岸も、こちらと同じような斜面になっている。しかし、川西かわにし淳郎あつろうがいる側と比べると角度はさらに急で、斜面というより崖と呼んだほうがふさわしい。その反面、高さはそれほどでもない。
 崖の上には、一本の大きな木が立っていた。がっしりとした太い幹で、低い位置にちょうどいい枝もある。
 かなりの年月を経た太い木は、風格すらあり、自分の体を任せても十分に余裕があるように見えた。
 枝もしっかりと張っていて、たくましい男の腕のようだ。
 申し分ない、と川西淳郎は思った。そして、その腕にロープをかけて、ぶら下がっている自分を想像した。
 あの木からは、川も空も見える。最後に目にする風景として、それ以上のものはないだろう。揺れる葉は太陽の光を反射して、自分を手招きしているようにも見えた。
 あちら側に渡ってみようか。しかし、川を渡るのも崖をよじ登るのもかなり大変そうだ。いや、その前にロープを取ってこなければ…。
 そう思ったとき、太い木の根元で何かが動いた気がした。最初は、雲が流れて、一瞬日陰になったのかと思った。
 雲が風に流されて、再び太陽の光が当たった。
 何かがきらりと光る。
 川西淳郎は目を凝らした。木の根元には小さなうろがあった。そこで、影が揺れたような気がした。目の錯覚かもしれない。それほどに小さな動きだった。
 実際、一度は目をらしかけた。
 そのとき、また何かが太陽の光を反射した。
 川西淳郎は立ち上がって、川に足を踏み入れた。
 川の流れは速かったが足を取られるほどではない。
 今度は両手で目の上にひさしを作り、再び木の根元を見つめる。
 そこにあったのは、洞の暗がりに溶け込んでいるような黒い塊だった。その中で、ちらちらと何かが光っていた。
 しばらく川西淳郎はその光を見つめた。やがて、水筒のようなものが見えてくる。あれが光を跳ね返していたのだろう。
 ひとつのものが見えると、次から次へと、別の物が見え始める。
 たとえば、水色のリュック。たとえば緑と赤のスニーカー。そしてそれを履いている子供の細い足。
 子供?
 なんであんなところに子供が? かくれんぼでもしている?
 とてもそうは思えなかった。子供は洞に隠れているというよりも、そこに身を横たえて、死んでいるように見えた。
 不意に足元をすくわれそうになって、川西淳郎は両足に力をこめた。気付けば、川の中ほどまで足を進めていた。
「おおい!」
 足が濡れるのを気にする余裕もなく、川西淳郎は叫んだ。
「そこの君!」
 しかし、子供の体が反応を示すことはなかった。
 本当に死んでいる?
 背筋に寒気さむけが走った。
 いや、と自分に言い聞かせる。
 死んでいるとは限らないじゃないか。たまたま見つけた木の空洞で、秘密基地気分で昼寝をしているだけかもしれない。
 そもそも、生身の子供だと決まったわけじゃない。どこの誰かは分からないが、子供のサイズのマネキンを押し込んだのかも。それが悪戯いたずらなのか、ゴミの不法投棄なのかは知らないけれど。
 そう思いながらも、川西淳郎は視線を逸らすことができなかった。