君と漕ぐ

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   第一章

 祖父の家はいつだって、線香の匂にお/いがする。甘ったるさとなつかしさが入り混じった空気が、畳の目のすきに入り込んでしまっているのだ。額縁に収まったご先祖様を見上げ、舞奈まいなはスンと鼻を鳴らす。今日からここが我が家になる。縁側に積み上げられた自身の荷物を見ても、その実感がかなかった。
「せっかくだから外を見てまわるか?」
 そう言って、父親はポロシャツの二の腕部分で額の汗をぬぐった。庭に停められた軽トラックの荷台には、だ幾らか家具が残されている。荷物を運び出している父親は、先ほどから縁側と荷台を行き来していた。小学生の頃から使用している学習机には、時代遅れのキャラクターシールがべたべたとり付けられていた。
「外って、どこのこと?」
 舞奈の問いに、父親は空いている方の手で凹凸の残る道路を指さした。
「ほら、駅の方とか。自然が多くて気持ちいいぞ」
 それが父なりの気遣いであることは明らかだった。だが、作業を続ける父を置いて自分一人で出掛けるのも気が引ける。
「うーん、でも、迷子になんないかな。ほら、私スマホ持ってないし」
「道さえれなけりゃ大丈夫だろ」
「まあ、そりゃそうだけど」
 板敷の空間へ足を降ろし、置かれていたスニーカーに足を通す。よく言えばレトロな、有り体に言えば古臭いデザインの赤い自転車は、明日からの通学用に祖父母が用意してくれたものだった。やや大きめのサドルにまたがると、足先が地面をかすかにった。
「じゃあ、ちょっとだけ散歩行ってくる」
「暗くなる前には帰って来るんだぞ」
「はいはい」
 表札に刻まれた『黒部くろべ』の二文字。父方の姓を舞奈が名乗り始めたのは、つい数日前の事だった。父が婿むこ養子だったため、それまでは母方の苗字みょうじを使っていたから、なんだか不思議な感じがする。黒部舞奈。自分の新しい名前を舌の上で転がしながら、舞奈は坂道を下った。ペダルをり飛ばせば、カラカラと車輪が音を立てて回る。日差しが溶け込んだ春風が、波打つ舞奈の黒髪を優しく揺すった。

 何もない場所だ、と父は自身の故郷のことを表現した。道路は広く、外灯は少ない。都会のように高い建物が密集している空間はなく、視界に広がる風景は畑や山、さらには川ばかりだった。湾曲する道路に沿って、白いガードレールが緩やかにたわんでいる。聞こえてくる列車の音に顔を上げたら、秩父ちちぶ鉄道を走るSLが鼠色ねずみいろの煙を吐き出しながら駅を通過していくところだった。