鯉姫婚姻譚

鯉姫婚姻譚

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「触ってはいけない」
 猿は寂しそうに笑うと手を引いた。
「解っているよ。春の節句まで、だろう」
 本当に夫婦になれるのは春の節句に里帰りしてからなのでそれまで触れてはいけない、というおすみの詭弁きべんを、猿は素直に守っていた。だがそんなことよりも、今はただ殺そうとした相手に優しく触れられるのが怖かった。
 猿の柔らかい毛先が触れるか触れないかの距離。猿は目を閉じて穏やかに言う。
「ねえおすみ、春が来たら、やっぱり村で暮らさないか。おすみにもその方が合っているだろうし」
 おすみは答えず、次第に深まっていく猿の寝息を聞いていた。

 自分が死んだら桜の樹の下に埋めてほしい、とその爺様は言ったらしい。
 猿の家に近い川沿いにあるその桜は、目のいいおすみでも天辺てっぺんがなんとか見えるかどうかという、異様なほどの大樹だった。
 随分古い樹のようだが、枝の一本一本についた蕾つぼみのどれもが膨らんで生気に満ちている。
「きっと桜が咲いたら見事だろうな」
 おすみはそう呟きながら、川に手をつけ、まだ冷たい水の流れを楽しんでいる。
「ああ、その頃には春の節句だ。ようやく里帰りができるなあ」
 おすみは水面から目を離さないまま猿に答える。
「やっぱり、止めねえか。里帰り」
 ゆっくり立ち上がって振り向くと、猿が戸惑ったような顔をしていた。一冬を共に過ごし、人とは違う猿の表情が随分読み取りやすくなった。
「里帰りしないと夫婦になれない、ってのは。嘘なんだ。山を下りる必要なんてねえ」
「何を言ってるんだ、おすみ」
 猿が困ったように笑った。猿の表情には慣れたが、この顔だけは止めてほしかった。人を真似て歯を晒すと、牙の鋭さが目立つだけだ。
「ずっと村で暮らそうと言ってきたじゃないか。いつまでも山の上で暮らすのも無理があるだろう」
「無理なもんか。必要な時は俺だけ山を下りればええ。そうだ、木を切ったらお前さんが山の麓まで運んでくれればええだろ。そしたらそれを俺が売るから、そうすれば」
「そんなことしなくても、儂が売ったほうが手っ取り早い」
 そうして、猿はまた笑った。おすみは言葉を失う。
 猿が山を下りれば、村人達がまた怯えるだろう。又吉とかいう爺様は大猿にも恐れずに接したようだが、そんな人間は珍しい。恐れ慄おののいた村人がなりふり構わず猿を殺そうとしてもおかしくない。
 今、おすみは、猿と夫婦になってもいいと本気で思うようになっていた。
 これも何かの縁だと割り切ってしまえるくらい、猿の素直な性質は好ましかった。村のどんな男よりも、接してくる態度は恭うやうやしく優しかった。
 だからこそ猿を村に行かせたくない。この純粋な猿は、自分が怖がられていることに気が付いたら、深く傷ついてしまうだろう。そのことが悲しかった。
 どう説得すればいいかと思案しながら、おすみは桜の大樹に手をついた。そのざらついて硬い樹皮に気を取られながらも、おすみは問う。
「お前さん、そんなに村に行きたいのか」
…又吉と呼んでくれ、何度も言っているだろう」
 返ってきた言葉がいつにない荒さを含んでいたから、驚いて猿の顔を見た。今まで見たこともないほどの冷たい無表情だった。

(つづく)