北村薫・インタビュー 《本》とともにある喜び 『太宰治の辞書』刊行記念

インタビュー

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太宰治の辞書

『太宰治の辞書』

著者
北村 薫 [著]
出版社
新潮社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784104066100
発売日
2015/03/31
価格
1,620円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『太宰治の辞書』刊行記念インタビュー 北村薫/《本》とともにある喜び

時を重ねた《私》に会える! 待望のシリーズ最新作。《私》は創作の謎を探り行く……

――新作『太宰治の辞書』は、落語家の春桜亭円紫(しゅんおうていえんし)さんと《私》のシリーズの最新作。九八年の第五作『朝霧』刊行後は「もう続編は書かない」と明言されていたので、嬉しい驚きです。

 自分でも書かないつもりだったんです。昨年の十月くらいにも「続編はないのですか」と訊かれて口を濁していたところだったのに、半年たたないうちに本が出るとは不思議なものです(笑)。

 きっかけは、去年の秋口に別件で新潮社に来た時に、新潮文庫創刊一〇〇年記念で作られた創刊当時の完全復刻本を見せてもらったことにあります。このあたりは小説にも書いた通りですね。巻末の刊行案内をパラパラと見ていたら《ピエルロチ》の名前があったんですね。ピエール・ロチといえば芥川龍之介の「舞踏会」の題材となった「江戸の舞踏会」を書いた人物だなと思い、編集者と「ロチの本も復刻すればいいのに」「それはどういうものですか……」というやりとりをしたんです。

 それがちょうど『小説新潮』新年号に掲載する、三十枚くらいの短篇を書き始める時期でした。ピエール・ロチや芥川のこと、三島由紀夫の出た座談会でロチの名前が間違えられていることなどに思いを巡らせているうちに、太宰治の辞書にまで考えが広がって、これで小説が書けるんじゃないかと思ったわけです。しかし、ここまで細かく考える人なんているだろうかと思った時に、《私》しかいないんじゃないか、と。あの子は著者である私と重なるところがありますから。

――そもそも、なぜシリーズの続編は書かないつもりだったのですか。

 うーん……。《私》が結婚していたら嫌ですから。婿は見たくないという(笑)。

――ああ、そんな父親の心があったのですか。『朝霧』から十七年、時代設定はいつになっているのかなと思ったら、《私》も私たち読者と同じように年月を重ねていましたね。円紫さんとまだ交流が続いているのが素敵でした。《私》の勤務先である出版社の方々のその後も分かりましたし、学生時代からの友人の《正(しょう)ちゃん》の登場は嬉しかったです。

 時の流れを書かないわけにはいかないと思いました。《私》については、『六の宮の姫君』で芥川の短篇について調べるような子が出版社に就職したら、今はどうなっているだろうかを考えました。円紫さんは、志ん朝も談志もいなくなった現在は、トップになっているのかな、とか……。《正ちゃん》とのやりとりは書き出すと自然と出てきますね。本の貸し借りについて《正ちゃん》が、昔は友達に貸した本は返して欲しかったのに「自分の好きだった本が、友達のうちにずっと置いてあるのも、悪いことじゃない」と言います。それはやはり年月を経ての、自分の思いですね。自分にとって永遠に大切なものが友達の家にあるというのも、それはそれでいいことじゃないかと思うようになりました。

――本書は「花火」「女生徒」「太宰治の辞書」の三話から成ります。ピエール・ロチと彼の作品を下敷きにした芥川龍之介の「舞踏会」、太宰治の「女生徒」、その中に出てくる辞書は何かなど、《私》は小説の中の描写に対する疑問や違和感について、丁寧に調べを進めていきます。広く知られている古典的作品でも、案外謎の部分や意外な事実が隠されていると分かります。

 私自身もそうですが、細かいところが気になるのが《私》なんですよね。芥川は「舞踏会」の中でロチの「お菊さん」という題で知られている話をあえて「お菊夫人」と書いている。そういうところが《私》は気になるわけです。この部分は芥川の自我を感じますよね。

 太宰の「女生徒」では、不自然だなと思っていた箇所があったんです。電車の車内でスカートのひだをちょっと直している間に、男が割り込んで目の前の席に座ってしまう場面があるんですが、どう考えても不自然でしょう? でも「女生徒」の元となった、太宰の愛読者の若い女性が記した『有明淑(ありあけしず)の日記』と突き合わせて読めば、謎はすっと解けます。

「女生徒」の、《料理は、見かけが第一》といってロココ料理を作る箇所もずっといいなと思っていたんです。ここは元の日記にはなく、太宰のオリジナルなんですね。うわべを飾ることのどこが悪いのか、と言いたかったんでしょう。ロココという言葉を辞典で調べたという記述があることから、太宰が持っていた辞典は何だったのかという関心が生まれていきました。

 いざ書いてみると様々なことがリアルタイムで起きるので、自分が書いているというよりも何かに書かされているように感じました。ちょうどテレビで又吉直樹さんが「女生徒」についてコメントしていたり、徳田秋聲記念館に問い合わせをしたら小説に書いた通りの、迅速な対応をしていただいたり。

 一昨年亡くなった私の友人の編集者の出身地である群馬県前橋市の図書館に太宰の辞書があると分かったのも驚きでした。実際に出かけて、焼きまんじゅうを食べ、市内をまわるうちに萩原朔太郎の謎にも出くわすことになりました。

 これを読んだ方が、本を片手に春に前橋あたりまで文学散歩に行ってくれると嬉しいですね。そして焼きまんじゅうを食べてくれたら。

――《私》は次から次へと謎や疑問を抱く。すでに読んだことのある過去の名作でも、いわれてみれば意外とひっかかる部分がたくさんあると気づかされました。

 本を読むことは受け身なこと、受動的なことと思われがちですが、実は能動的な作業なんですよね。単に目が活字を追うことが読むことではない。読み手によって、本はその都度作られていくんですよね。

――芥川と太宰はもともとお好きでよく読んでいたのでしょうか。

 芥川は中学生の頃に歩きながら読んでいましたね。太宰は高校生の頃、試験前に勉強したくなくて『人間失格』を読みました。多くの人と同じように、心をつかまえられました。両方とも好きですし、総合的に見て太宰のほうが自在だと思いますが、どちらも巧いですよね。私は巧い作家が好きなんです。

――さて、太宰の有名な「生れてすみません」は、実は無名の才人、寺内寿太郎さんの言葉だった、というエピソードも丁寧に書かれています。

 太宰がエピグラフという形にして取り込んだのは納得できます。しかし、寺内が書いたということは他の書籍でも触れられていることですし、彼が表現者であったのなら、彼の作品という形で出しておいたほうがいいという思いがありました。それで、作中にその言葉を罫線で囲んで記したのは、彼の墓碑を建ててあげたかったからです。

――芥川の「舞踏会」がピエール・ロチの文章を題材にしていたり、太宰の「女生徒」が『有明淑の日記』をベースにしていたり、太宰の有名な言葉が寺内寿太郎さんのものだったりと、本書は引用を多用した、あるいは本歌取りした創作物についての物語ともなっていますね。

 この本では、遠慮会釈なく引用しました。もちろん、それが欠かせないから使用しているわけです。私は引用元を明らかにしていますけれど、意志を持って出典を書かない方もいますし、それが盗作になるかどうかとなると、難しい問題です。

 ただ、ある才能を持って作品化できる人においては、そういうこともすると思います。「女生徒」は元になった日記を読むと「そのままじゃないか」と思う方もあるかもしれない。しかし、私はやはりあれは太宰治の作品だと思います。シェイクスピアを読む時、人はシェイクスピアその人になる、と言ったりもします。有明淑が日記を書いた時、彼女は“太宰”だったんでしょうね。又吉さんがテレビで太宰のことを言った時にも、又吉さんは“太宰”だった。そのような集合体としての“太宰治”がいるように思います。だからこそ、太宰の小説を読むと「私のことが書かれている」と感じる人が多いのでしょう。

――現実と小説の関係性にも、幾度か触れられていますよね。太宰の『津軽』では子守だった女性、たけとの再会が感動的に書かれますが、実はあれはフィクションだったということを《私》は知ります。

「花火」後半で「舞踏会」について書いたことや『津軽』のたけのことは、リアルとは何ぞや、という話ですよね。「花火」の最後に書きましたが、三島の言葉に《歴史の欠点は、起ったことは書いてあるが、起らなかったことは書いてないことである》とあります。今はフィクションよりもリアルを書いたほうが受けると言われているそうですが、私はフィクションの力を信じたい。現実に起こらなかったことをも書けるのが、小説ではないでしょうか。

 私のようなフィクション側の人間にとっては、書かれているものが現実と同じかどうかというのは問題ではないんです。『津軽』を書いたのは太宰治であって津島修治ではありませんし、我々は『津軽』で歴史を読もうとしているわけではない。『津軽』のなかでは厳然と、たけとの再会は起こっているんです。

――新潮社のロビーの壁に書かれてある《不盡長江??來》いう言葉が本書の最初と最後に出てきますね。《尽きることのない長江の流れは滾々(こんこん)と流れ来る》とあります。

 時の流れに対する思いがあって入れました。話の始まりに長江が滾々と流れているという詩を見つけ、最後に《私》が前橋にいくと広瀬川が流れている、というところにも繋がりました。

 二十代の《私》が四十代になって、いつかは消えていく。それでも川の流れも本も消えることなく、読み継がれていくわけです。これを読んで、ここに出てきた作品や、このシリーズ(★)の他の本も読みたくなってもらえたら嬉しいですね。何かを読んで「これも読もう」となって、さらに広がっていくのは読書の楽しみです。

――巻頭のエピグラフはシンプルに《本に――》とありますよね。

 この本を読む人はたぶん本が好きな人でしょう。私も本とともに生きてきました。ですから、改めて本というものに「ありがとう」と、お礼を言いたかったんです。

★《私》シリーズ――創元推理文庫
北村薫のデビュー作品集『空飛ぶ馬』から始まる。
『夜の蝉』『秋の花』『六の宮の姫君』『朝霧』の五冊。主人公の《私》は姓も名も秘された、十九歳の国文科の大学生。本好きで落語を愛する《私》は、春桜亭円紫さんと出会う。《私》が遭遇した謎めいた出来事を語ると、円紫さんは次々と謎を解き明かし、そこに潜む真実を教えてくれるのだった……。
《私》は、美しい姉や《円紫さん》、大学の友人《正ちゃん》=高岡正子、《江美ちゃん》=庄司江美、などなど、魅力的な人々に囲まれて、大学生から新人編集者に……その成長の道筋を、日常の謎の深淵を探りながら辿る、ロングセラーの小説集。

新潮社 波
2015年4月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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