『杖ことば』
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もう駄目だというときに、自分をささえ、再び立ち上がらせてくれた言葉たち【自著を語る】
[レビュアー] 五木寛之
そんなとき、ふと心の中で、響(ひび)いてくる言葉があります。
「継続(けいぞく)は力なり」
そのことわざに妙に納得させられるのです。
そうか、継続は力なりか!
不思議なことに、その言葉がひとつの“てこ”となって、そっと背中を押してくれるのです。そして、もう一歩を押し出してくれるのです。
重い荷物を背負って、山を登らなくてはならないとき、ヨッコラショと、自分自身に掛(か)け声をかけて、立ち上がる。そのヨッコラショ、に当たるのが、杖ことばなのではないでしょうか。
修行(しゅぎょう)で霊山(れいざん)に登る人たちは、山伏(やまぶし)の格好(かっこう)で、金剛杖(こんごうづえ)をつき、「六根清浄(ろっこんしょうじょう)」と唱えながら、一歩一歩進んでいきます。
ここに紹介する言葉は、みんな、私が日々の暮らしの中で、つらいなと感じるときに、思わず口をついて出る、ヨッコラショなのです。
ブッダは死の床で、うろたえ、絶望(ぜつぼう)する弟子たちに、自分が亡くなった後は、これまで教えた法をみずからの中にしっかり根づかせ、それをよりどころにして、他人に頼らずしっかりと生きなさいと諭(さと)しました。それが自灯明(じとうみょう)、法灯明(ほうとうみょう)という教えとなって、伝わっています。
「自分をよりどころにせよ、法をよりどころにせよ」というブッダの教えを生きるためには、ともすれば崩れそうになる自分をささえる杖ことばが必要なのです。
「転(ころ)ばぬ先の杖」ということわざがありますが、このときの杖とは、先人たちが、生活の中で得た智慧(ちえ)の言葉なのかもしれません。
人生の折節(おりふし)で、私をささえてくれたのは、古くからのことわざや格言(かくげん)の類(たぐい)から、法然(ほうねん)、親鸞(しんらん)、蓮如(れんにょ)と続く浄土系(じょうどけい)の宗教者の言葉、キリスト教の聖書や西洋の哲学者の言葉まで、いろいろあります。ここに紹介したのは、ほんの一部です。
このようにして、私は難儀(なんぎ)な時をのりこえてきました。これからも、杖ことばによってささえられて生きていくことでしょう。そのときにどんな杖ことばと出会えるか、年がいもなく、少しわくわくしています。
(「まえがきにかえて」より)