古典とラディカル

レビュー

43
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ギケイキ

『ギケイキ』

著者
町田 康 [著]
出版社
河出書房新社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784309024653
発売日
2016/05/13
価格
1,728円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

古典とラディカル

[レビュアー] 大塚ひかり(古典エッセイスト)

 物心ついて以来、居場所がなかった。

 それが中学生のころ、『宇治拾遺物語』や『源氏物語』といった古典に出会うことで、「私の生きる世界はここにある」という安らぎを得た。

 そこでは、いままで「常識」と思っていたものが「常識」ではなく、いまの価値観とは違う価値観があった。古典は「いまとは違う常識も有りなんだ」という喜びをもたらしてくれた。

 室町時代にできた源義経の一代記『義経記』を、義経の一人称で語り直した『ギケイキ』にはまず、そんな古典の癒やしと喜びが詰まっている。『義経記』の原文を確かめたくなるようなことばのひっかかり感に満ちていながら、原文の面白さを伝えている。

「平家、マジでいってこます」(帯)という妙な関西弁、名高い泥棒の藤沢入道が「おねぇ言葉」を喋り、北国の王者藤原秀衡が「鳩って源氏のアレでしょ」「早く、起こして頂戴。愛して頂戴」などと言う違和感。

 だが原文を確かめると、確かに『義経記』にはそう書いてあるよ! 『義経記』の言わんとすることをいまのことばにしたらそりゃそうなろうと、改めて『義経記』の面白さ、古典が古典として語り継がれたゆえんに得心がいく。

『ギケイキ』に充満する表現の、良い意味でのひっかかり感は、現代人が古典に対峙した時に抱く感じ、古典自体の持つひっかかり感にリンクしながら、そこをひらりと突破して瞬時に「いま」になる。

 たとえば、のちに義経の忠臣となる弁慶が、書写山の僧戒円によって顔にいたずら書きをされ笑い物にされた仕返しに、書写山の「悪口」を言うシーン。原文は“散々に悪口す”で、古典文学全集なんかの訳は「さんざんに悪口をいった」などとある。それに書写山側は衝撃を受け……という展開だ。これだと現代人は、たかが悪口でなんで大騒ぎに? と、ひっかかり感だけが残る。しかし『ギケイキ』は違う。弁慶が「@shugyosha」というふうにメンションを飛ばして、

「@shugyosha書写山の学頭って菊門(大塚注 アナル)のことしか考えてないよね」「@shugyosha知り合いの彼女が昨日、自殺しました。戒円って人にレイプされたそうです」「@shugyosha書写山の本尊ってパチモンらしいね。張りぼて」などと書いた紙を貼って歩く、という物語にしている。

 うわ、ネットもない時代に「@shugyosha」!? というひっかかり感がここにもある。あるのだが、なにしろ語り手の義経(の魂)はいま現在に存在し、そこから過去を語るという設定だから、「いまで言うと」を平気で連発して矛盾がない。それにも増して読者は、語りの面白さに乗せられて、いまで言うならかくもあろうと素早く脳で納得し、ページをめくる手が止まらない。

 そしてそんな読者の姿勢は正しい。

 実は中世の“悪口”は、いまの悪口とは意味が違う。悪口は「あっこう」とよみ、鎌倉時代に制定された「御成敗式目」には、殺人や放火、密通、文書偽造とともに刑事犯罪として規定される重罪だ。悪口の具体例としては「乞食非人」などと相手の身分をおとしめたり、相続争いでは「子息に非ず」みたいのがあった(『「鎌倉遺文」にみる中世のことば辞典』)。「さんざんに悪口をいった」などと訳したのでは、こうした当時のあれやこれやはまるで伝わってこないのだ。

『ギケイキ』の悪口のくだりはいかにもラディカルで「いま」でありながら、その昔の“悪口”の、発したことばが現実になるという言霊信仰に根ざした破壊力をも体現していて、いまとは違う昔のリアルがそこにありつつ、いまのリアルとリンクしているという奇蹟がある。奇蹟のもたらす可笑しさがある。日本文学全集所収の『宇治拾遺物語』の訳でも感じたが、町田康って人は古典の絶対音感みたいのがあるんじゃないかと思ってしまう。

 そもそも当時の僧は、ワケありの子が親に棄てられるも同然な感じでなることが多かったせいか、心もねじけがちでメンタルも弱く、すぐ盗みすぐ喧嘩しすぐ燃やし……という向きが多い。平安中期の『源氏物語』にも「僧侶は聖僧といってもとんでもなく邪な嫉妬心が深く、嫌なもの」(“法師は聖といへども、あるまじき横さまのそねみ深く、うたてあるもの”)と、ある。いまの人が抱きがちな悟ったイメージとは違うのだ。稚児と交わったり、女を妊ませたり、武装した僧兵なんてのもいたわけで、

「あの頃の僧はけっこう極悪でヤンキーみたいな人も多」(『ギケイキ』)かった。

『ギケイキ』にはそんな当時のリアルな僧だらけで、弁慶はもちろん、義経自身も、平家に敵対した源氏の棟梁の子というんで僧になるべく寺の稚児となった。ところが、父の乳兄弟の子で、やはり僧となっていた男に、

「蹶起しようと思わないんですか。チンポないんですか」(『ギケイキ』)と平家打倒をそそのかされて鞍馬を飛び出したわけだ。

 平安末期、源氏に勝利をもたらしながら非業の死を遂げた義経が、室町時代に『義経記』として語られたのは、下剋上的な世の中になり、身分が低くても努力さえすれば報いられるのではという希望が生まれた分だけ、叶わなかった時の失望も深まり、一般人の不幸感は強まっていた、そういう人々にうってつけのリアルなヒーローだったからだろう。

『義経記』が語られた室町時代と似たような状況が「いま」にはあって、その「いま」の語りで『義経記』ができた当初の面白さを伝えつつ、いまの物語として滅法面白い『ギケイキ』。

 とりあえずの一巻目は、弁慶を得た義経が、いよいよ異母兄の頼朝と対面する直前で幕引き。以後、四巻までの続きがcan’t wait状態になってる私が目下気になるのはサブタイトルの「千年の流転」だ。

 義経が生まれたのは一一五九年で、今年は二〇一六年なので、千年というには短い。ひょっとしてこの物語は、義経が生まれるもっと昔の過去や、あるいは「いま」より先の未来につながっているのか……などと勝手にあれこれ妄想できるのは小説なればの楽しみだ。

「居場所がない」と思う人には、とりあえずいまは『ギケイキ』がある。

『ギケイキ』を読めば、自分を縛る価値観なんて義経の早業の速度で変わると気づいてラクになる。そして、最もラディカルに見えるものが最も古典的、最も古典的なものこそがラディカルなのだと腑に落ちるはずだ。

新潮社 新潮
2016年8月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

新潮社

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