『クローバーナイト』刊行記念――辻村深月の世界「イケダン・ホカツ・お受験……普通ってなんだ?」

レビュー

4
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クローバーナイト

『クローバーナイト』

著者
辻村深月 [著]
出版社
光文社
ジャンル
文学/日本文学、小説・物語
ISBN
9784334911300
発売日
2016/11/16
価格
1,512円(税込)

書籍情報:版元ドットコム

『クローバーナイト』刊行記念――辻村深月の世界「イケダン・ホカツ・お受験……普通ってなんだ?」

[レビュアー] 品川裕香

 週刊誌に著者インタビューと書評を連載して十四年近くになる。純文学からエンタメ、翻訳もの、果ては詩集から絵本まで寝ても覚めてもひたすら新刊本を読みまくる日々なのだが、そんな私でも、デビュー作からリアルタイムですべての新刊を読み続けている作家となるとそれほど多くいるわけではない。

 そのうちの一人が辻村深月だ。

 私が連載を始めて一年ほど経った二〇〇四年の夏、メフィスト賞を受賞したのが辻村のデビュー作『冷たい校舎の時は止まる』だった。ご存じのように同賞受賞作品はジャンルにあまりとらわれず、「そう来たか!」と唸らされるような快作が多い。このときも、彼女の同世代の若者に対する観察力の鋭さと、その大胆な発想がおもしろく一気に読み終えた。若干長すぎるかもと思わないではなかったが、それでもデビュー作でこれなんだから今後どんなものを書いていくんだろうとワクワクした。そうして、私の中で辻村は“新刊が書店に並ぶのが待ち遠しい作家”になったのである。

 その後、〇九年には『ゼロ、ハチ、ゼロ、ナナ。』が第一四二回直木賞の、また第三一回吉川英治文学新人賞の候補になる。同作品は母親殺しの疑いをかけられ失踪した女の行方をその女友達が探すというミステリーだが、純粋に推理を楽しむだけの小説というわけではなかった。辻村はこの作品のなかで女同士の生々しい感情や母娘の支配被支配関係を見事に描き切り、作家として一段高みに到達したことを証明した。個人的にはこの作品で直木賞を取ってもらいたかったと思うくらいの傑作だった。以降、辻村は同賞をはじめ山本周五郎賞、山田風太郎賞等各文学賞候補の常連になり、一一年に『ツナグ』で第三二回吉川英治文学新人賞、一二年に『鍵のない夢を見る』で第一四七回直木賞を受賞する。

『クローバーナイト』は、そんな辻村の一九冊目の長編小説だ。

 主人公は三十五歳の鶴峯裕。同い年で大学時代のサークルの仲間だった志保と結婚し、五歳の長女・莉枝未と二歳の長男・琉大がいる。裕は大学時代の親友が父親と経営している小さな会計事務所で働く公認会計士だが、志保は莉枝未を出産した翌年、三十一歳でオーガニックコットンの専門ブランドを立ち上げた起業家だ。今ではテレビや雑誌から“ミセスCEO”として取材を受けるほど注目を浴びている。

 自営業経営者の志保が多忙になればなるほど、必然的に子どもたちの面倒は時間の融通の利く裕が見ることになる。物語は、そんな裕が接待をしていて莉枝未と琉大の保育園のお迎えを忘れてしまい、真っ青になるシーンから始まる。すぐにそれが悪い夢だと明かされるのだが、読み手は裕が夢でうなされるくらい子育てにどっぷりと関わっていると知ることになる。

 第一章はそんな裕のことを「イケダン」で「イクメン」だと紹介しながら、同時に、この小説が子どもを同じ保育園に通わせているママ友たちの話でもあることを明らかにする。たとえば、同章では一人のママ友に関してある噂が広がる。その噂を通して辻村は女子同士の閉塞した関係の権化のような“ママ友社会”をつまびらかにしていく。

 第二章は、都会では激戦で知られる保育園入園活動=「ホカツ」に振り回されるママたちの姿を描く。保育園に対していまだに古い価値観を持つ親世代との対立や、熾烈化する入園競争の実態が豊富なエピソードとともに描かれる。

 視点を変えて保育園ではなくお受験幼稚園、つまり名門私立小学校を受験するために通わせる予備校(?)のような幼稚園と小学校受験の実態に焦点を当てたのが第三章だ。この章で描かれるお受験の実態は寒々しさを通り越して滑稽ですらある。「お受験があるのに次の子を妊娠するなど何を考えているのか、ふしだらだ」と幼稚園の先生に志保の学生時代の友だちが怒鳴られるシーンがあるのだが、読みながら思わず「なんじゃそりゃ」と声が漏れてしまった。

 続く第四章は、子どものお誕生日会というイベントに奔走し疲弊していくママたちと、社会階層や経済階層が高い、いわゆる“セレブ”と呼ばれる人たちが我が子を通わせる有名私立幼稚園の実態が描かれる。ここにもなかなかの驚愕シーンが登場するが、そこはまだ読んでいない方々のためにお楽しみとしたいので、ここでは紹介しない。

 そして、第五章だ。この章では裕が結婚前から気づきながらも言葉にしてこなかった志保と実母との歪な関係がクローズアップされる。実母は琉大の発語がほかの子どもより遅いと思い込み、専門家に見せるよう志保に執拗に迫る。自分は絶対正しいと信じて疑わない実母は、娘の「二度と琉大の言葉のことは口にしないで」「自分たちのペースで頑張れてるから」との訴えもあっさり無視する。あげくに「ママ、リュウちゃんのことだけじゃなくて、志保のことがかわいい。かわいい! かわいい! かわいい!」と泣き声で繰り返すのだ。実母は孫のことが心配過ぎて黙っていられないのではない。単に自分の思い通りに娘を支配したいだけ、そしてその支配欲に自分自身が依存しているだけ、ということに気づいていない。

 本作品の秀逸な点は、主人公をママの志保ではなく、パパである裕に据えた点だ。

 一口にママといってもさまざまだ。本書に登場するように、子どもの頃から人脈作りをさせたいと願うなど独特な価値観を持っているママもいるだろう。将来少しでも苦労させたくないと願うママもいる。そういうのに巻き込まれたくないと踏ん張るママだっている。また、ママ友関係といっても意地悪で互いを見張るような大変なものばかりではない。共に助け、励まし合う関係だっていくらでもある。

 だが志保がママ友の実態やママ友同士の関係性を語るとなると、当事者ゆえに近視眼的になりやすい。読み手がママ友の肯定的な関係性を知らなければ、リアリティも持ちにくいだろうし、感情移入もしづらいかもしれない。

 その点、裕はお迎えを忘れてしまう悪夢にうなされるくらい積極的に育児に参加しているパパだ。つまり、ママ友たちと限りなく近い存在でありながらパパであるがゆえ一定の距離を保ちつつ、男性ならではの視点で彼女たちを観察・分析したり、課題に気づいたりしても異和感はない。裕のこの視点があるから、読み手もまたある程度の距離感を持って物語の世界に入っていけるのだ。

 そんな本作品の魅力を三点あげておきたい。

 まず、『VERY』連載ということもあり「イケダン」「イクメン」「ホカツ」「お受験」など今どきの都会の家族や育児を理解するうえで重要となるキーワードを中心に物語が紡がれている点だ。

 本作品を読まなければ「イケダン」なんて言葉は知らなかったという人もいるだろう。イケダンとはイケてるダンナの略で、見た目もカッコよく仕事も有能で、夫婦仲も良く家庭も顧みて子育てにも熱心、というスーパーハズバンドのこと。昨今、ダンナが「イケダン」であるだけで女性は勝ち組と呼ばれるはずだ。たぶん、だけど。

「ホカツ」については「保育園落ちた日本死ね!!!」というブログがアップされ、国会で取り上げられたのが、一六年二月末のことだ。その後、ツイッター上で「保育園落ちたの私だ」というハッシュタグ(検索ワード)ができるほど盛り上がり、「保育園落ちたの私だ」デモにまで発展したのは記憶に新しいところである。ホカツを成功させるために偽装離婚するなど常識で考えたら不自然に思えるようなエピソードも描かれているが、これらは決して作り込み過ぎとは言えない。実際、私自身、取材をしていて、辻村が描いたエピソードと似た事例をほんとうによく見聞きする。辻村は本作を書くにあたり入念に下調べをしているのだと思う。そして、それがこの物語に圧倒的なリアリティと説得力を持たせているのだ。

 二つめは、そういった現代的なキーワードから物語を展開しつつも、普遍的なテーマである「普通とはなんだ」という大きな命題に挑んでいる点だ。

 第四章に裕がママ友たちを分析して語る象徴的な場面がある。

――何が“普通”になるのかは、誰にもわからないのだ。

 他から見てどれだけ異質でおかしなことだったとしても、自分が属している社会でそれが“普通”になるのだとしたら、感覚がどんどん麻痺していくのだろう。それはおそらく、生態系が独自の進化を遂げたガラパゴス諸島のようなものなのだ。狭い範囲のお誕生会の島が、どんどん独自ルールで進化し、止まらなくなる――。

 どれだけ優秀で努力家で、あるいはセレブだったとしても、誰しも子を持って初めて親になる。子どもがゼロ歳だから親業一年め、一歳になったら親業二年めというわけではない。親にしてみれば我が子がいくつになっても初めて体験することばかりだし、下の子が生まれても個々の子どもによって生得的要因(持って生まれた特性)が異なることを踏まえれば、親はいつも“その子の親”としては一年めなのだ。経験値が低いと何が正解で何が誤りなのか簡単にはわからない。それゆえ、自分が所属する集団の「普通」を頼り、少しでも失敗するリスクを避けたいと考えたとしても不思議ではない。だが、辻村は「普通」に縛られるママたちの心情に理解を示しながらも、それでもなお問いかける。それでいいのか、と。

 三つめの魅力は、「普通か普通じゃないか」も「結婚後も続く母娘の歪な関係」も、夫婦に「親としての覚悟」があるかどうかで変わることを言葉を尽くして伝えている点だ。

 ラスト数十ページで、志保とその母の関係性が、実は夫婦や核家族の骨幹を揺るがしかねない大きな問題であることが鮮明になる。そのとき、裕もまた気づくのだ。

――自分たちは、胸を張って“核家族”をやっている。妻と子供たちを守るのは、自分だ。

 親としての覚悟が意識化されたとき、裕は「イクメン」「イケダン」などの言葉がイメージするものを越えて、どっしりとして大きい、両足で大地を踏みしめるような力強い存在に変わる。

 こうして作品をひもといてみると、社会変容を素早く読み解きながら、辻村と同世代の人々が抱える課題を焦点化させて秀逸なエンタメに作り上げたことがわかる。作家としての辻村の力量が、またワンステージ向上した。見事というほかない。

光文社 小説宝石
2016年12月号 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

光文社

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