<書評>『レッド・アロー』ウィリアム・ブルワー 著

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レッド・アロー

『レッド・アロー』

著者
ウィリアム・ブルワー [著]/上野 元美 [訳]
出版社
早川書房
ジャンル
文学/外国文学小説
ISBN
9784152103055
発売日
2024/01/29
価格
2,970円(税込)

書籍情報:JPO出版情報登録センター
※書籍情報の無断転載を禁じます

<書評>『レッド・アロー』ウィリアム・ブルワー 著

[レビュアー] 樋口恭介(作家)

◆赤い矢がもたらす無数の現実

 ウィリアム・ブルワー『レッド・アロー』。そのタイトルが示すとおり、物語の核となるのは、時間を直線ではなく多方向に伸びる矢と捉えるという物理学の理論であり、その宇宙の法則は、物語の語り手であるゴーストライターのかかえる鬱(うつ)病とサイケデリック療法と密接に絡み合い、時間、記憶、現実と虚構の境界を曖昧にしてゆく。

 物語の主人公である<ぼく>は2作目を書き上げることのできない小説家で、鬱病や借金や様々(さまざま)な人間関係のトラブルをかかえながら、ゴーストライターとして行方不明の物理学者が残した謎に満ちた回想録の完成という作業に取り組んでいる。書けない焦燥感と経済的不安は彼の精神のすべてを支配し、自己充足感や自己肯定感を奪い続け、希望はほとんど失われており、定期的に通っている自助グループは根本的な解決には寄与しない。物理学者の回想録を完成させるという象徴的な目的は、借金を解消する手段として描かれる一方で、それは同時に、彼自身の創造性や精神の解放という役割も担っている。

 物理学者が残した回想録の謎が解き明かされたとき、それはやがて出会うサイケデリック体験と呼応しながら、宇宙と個人的な世界の多次元性と多様性を浮き彫りにすることになる。サイケデリック療法がもたらす変性意識状態は、時間の体験を大きく歪(ゆが)め、経験の序列を変換する。現実世界においては単調かつ順序立てられたものとして認識される時間が、感覚と記憶の断片と混ざり合い、新たな認識の形式を構築する。彼はそこで、無数の時間の矢が縦横無尽に飛び交う物理現象を、比喩ではなく現実として目撃することになる。

 救済は最初から宇宙の中に埋め込まれていたことを、赤い矢に貫かれた彼は知る。そうして本書を読み終えたとき、現実はつねにすでに移り変わっており、変えられないものはなく、悪夢のようなあらゆる世界は一つの世界にすぎないことを、我々は彼とともに知るのである。

(上野元美訳、早川書房・2970円)

米国出身の作家。本作で長編デビュー。

◆もう一冊

『ヴァリス<新訳版>』フィリップ・K・ディック著(山形浩生訳、ハヤカワ文庫SF、品切れ)

中日新聞 東京新聞
2024年3月10日 掲載
※この記事の内容は掲載当時のものです

中日新聞 東京新聞

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