第二回 ③

ムーンリバー

更新

前回のあらすじ

越場勝士、52歳。出版社勤務、文芸編集部の編集長。二十年近く前に離婚して、今は21歳の息子・士郎と2人暮らし。士郎は先日偶然、俺の部下の阿賀野鈴と書店で会ったらしい。家にあった、取材で撮影した写真に写る新人の頃の阿賀野さんの姿を見て気付くくらい、彼女は童顔なんだ。阿賀野さんの妹・蘭さんは夫を去年交通事故で亡くしている。そろそろ一周忌だと、言っていたな。

イラスト 寺田マユミ
イラスト 寺田マユミ

真下蘭ましたらん 二十七歳 〈デリカテッセンMASHITA〉

 晶くんの一周忌が終わって。一度実家に戻っていろいろと話をしてくるのがいいんじゃないか、って真下のお義父さんお義母さんにも言われて。
 そうですね、って。
 どうしても話さなきゃならない、ってことは特に無いようにも思ったんだけれども、でも結婚した夫が死んでしまった身としては、実の娘としては、やっぱり実家の父母ときちんとこれからのことを話しておいた方がいいんだろうな、っていうのは思った。思いました。
 そして一周忌が終わったというこのタイミングは、確かに、そういうことを行なうのにはベストなのかなって思った。
 胸の内どころか身体中に拡がっていたような気がする悲しみや苦しみや辛さというような感情が、日常というものに撹拌されて少しずつ少しずつゆっくりと沈んでいって、おりのようになってそして固まっていって。思い出したときにそっと掬って感じた後に、また元に戻せるようになっている。そこで静かに眠っていてねって。
 いつか、どこかに流れていくのか、混じるように消えていくのかまだわからないけれども、少なくともそうなってる。
 晶くんが死んだという電話を受けたのは、私だった。
 午前十一時過ぎ。晶くんがお店のミニバンに乗って、お弁当の宅配サービスをしている会社に打ち合わせに出かけているときだった。
 リニューアルして〈デリカテッセンMASHITA〉になって、お総菜やお弁当の宅配も視野に入れて、いろいろと関係各所に話を聞いて進めている最中のこと。
 警察の人が、晶くんのスマホから電話してきたんだ。私に。
 私の名前がスマホに登録されている〈よく使う〉の最初にあったから。そして晶くんの運転免許証を確認して名字が同じだったから、おそらく奥さんか、あるいは家族なのだろうって。
 今でも、そのときのお巡りさんの声を覚えている。静かに、丁寧に、ゆっくりと話し出した。

 私は、練馬警察署の警察官、磯塚と申します。
 真下蘭さん、でお間違いないでしょうか。
 私は今、真下晶さんの携帯から、あなた宛てに電話をしています。
 今、お電話していて大丈夫でしょうか。
 真下晶さんはあなたの配偶者の方ですか?
 蘭さんは、今どこで電話を受けていますか?
 できましたら、椅子に座るなどしていただけますか。床に腰をおろすでもいいです。
 自宅におられるのですね? 家には他に誰か家族の方はおられますか?
 では、スピーカーにして他の方にも聞けるようにしてください。

 何かがあったことは、そのゆっくりと噛んで含めるような声音で充分伝わってきた。何よりもお巡りさんが晶くんのスマホを使って電話してきているということが、それを示していた。
 後から聞いたのだけれど、本人のスマホを使ったのは詐欺などと疑われることを避けるためだったみたい。そしてすごくびっくりしたのは、電話してきた磯塚さんが後日に直接やってきて、スマホを勝手に使ってしまって申し訳ありませんでした、と、ぽち袋みたいなものに電話代として二百円入れて持ってきたこと。
 近頃の警察はそんなところにまで気を使わなきゃならないんだね、って皆で感心するやら気の毒になるやらって話をした。
 よく、ショックな出来事があったらそれからしばらくのことが記憶にない、なんて言うけれども、私や、真下家の場合もそういうふうになった。
 ただし、ショックで惚けていたんじゃなくて、変わらずにいつも通りの毎日を過ごしていたから。晶くんがいなくなった分をカバーして普段よりも忙しく働いていたから、記憶にないというよりも、本当にいつも通りにやっていたから、あたりまえのいつも通りの日々だったから記憶に残っていない。
 その方が良かったなって今は思えるけれども、悲しんで泣いているような時間はなかった。
 店を休んだのは、晶くんの葬儀の日だけ。
 警察から連絡があった日も、営業はしっかりやった。葬儀が終わった翌日からは平常営業した。
 晶くんが、リニューアルさせた〈デリカテッセンMASHITA〉なのだ。
 そして、毎日来てくれるお客さんがいる。そのために毎日欠かさず仕入れている食材がある。毎日来てくれるお客さんをがっかりさせてはいけない。仕入れた食材をダメにして無駄にしてしまったりしてはいけない。
 何があろうと、店は開ける。それが肉・総菜店〈ました〉だったのだ。私にとってみると義理の祖父にあたる真下繁雄さんが始めて、晶くんで三代目になる。なるはずだった。その遺志は、響くんが受け継ぐ。