第三話 明智小五郎【4】

乱歩と千畝 RAMPOとSEMPO

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前回のあらすじ

千畝はハルビンにいた。ロシア語が堪能になった千畝は、クラウディアという女性と親しくなる。だが思わぬ男と接触することに。

画 鳩山郁子
画 鳩山郁子

     四、

 大正十三(一九二四)年九月五日。
 大阪はまだ残暑の真っ最中で、朝の七時にもなるとかなり暑い。隆子りゅうこも息子もすでに起きて身支度をしているようだが、太郎は一向に起きる気にならなかった。
「あなた、あなた! 遅刻しますよ!」
 食卓のほうから隆子の怒号が聞こえてくる。
 行きたくない。太郎は薄い布団を被る。
 行きたくない、行きたくない、会社になど行きたくない。
 だいたい、毎日、朝起きて仕事に行かなければならないなどとどうして決まっているのだ。人には天分というものがある。毎日規則正しい生活をするのが得意な人間もいれば、そうでない人間もいる。そうでない人間は、規則正しくなくてもよい仕事に就く権利があるはずなのだ。
「あなたっ!」
 飛んできた蠅叩きが頭にぴちりと当たり、太郎は起きざるを得なかった。
 太郎は目下、父・繁男しげおの家の隣家に間借りして、親子三人で暮らしている。仕事は、父の口利きしてくれた大阪毎日新聞社の広告部である。わずかばかりの朝食を取り、家を出たのが七時半。八時前に出社して自分の机に着くと、広告依頼の封書が山と積んである。
 十五分ばかりぼんやりしていると、
「平井さん、そろそろ始めないと部長が来ますよ」
 隣の席の若手社員が肩を小突いてくる。
「ああ…うん」
 封書をあけ、広告内容と広告料を確認し、用紙に転記していく。振り込まれた金額によって広告の大きさが決まるので間違えると大変である。
 ぼんやりしているようで太郎は、仕事での失敗はほとんどない。むしろ、昨年末に企画したセメントの広告ばかりを集めて特異な意匠を凝らした全面広告は、社長直々に褒められたほどなのだ。基本給に歩合給が足されるので、ここのところ実入りはかなりいい。
 だが―と太郎はやはり思ってしまう。
 単調すぎる。つまらなすぎる。毎日毎日これでは、人生が腐ってしまう。早稲田大学を卒業して貿易会社に就職してから、実に二十回以上も転職しているのだ。今さら、定年までの会社勤めになどこだわりはない。
 収入など少しは減っても構わない。専業作家になりたい。
『二銭銅貨』が「新青年」に掲載されてから、一年半ほどが経過していた。編集長の森下雨村うそんは作家・江戸川乱歩を高く買ってくれ、どんどん新作を書けと言ってきた。それで、今年の六月号に掲載された『二廃人』まで、合計四編を世に送り出した。
 中には自分で嫌になる駄作もあったが、森下氏は「読者からの評判もいい」と言ってくれる。だからおそらく、仕事があるにはあるのだ。
 だが―と懸念もある。
 探偵小説の読者は常に、新しい驚きを求めている。ところが、機械トリックの類はもう欧米の作家がほとんど考えつくしてしまったように思える。筋で驚かせる方法もまたしかり。今のところ、その欧米の先行作品のトリックをさらにもう一ひねりして探偵小説好きの読者を騙しているが、いつまでもこの手法は通用しないだろう。
 太郎にも策がないわけではない。
 長く探偵小説を書いていくのに必要な要素をひとつ、思いついているからだ。
 名探偵である。
 エドガー・アラン・ポーのオーギュスト・デュパンをはじめとし、ルコック、ホームズ、ソーンダイクなど、欧米の小説には魅力的な名探偵が登場する。彼らに匹敵する名探偵を生み出せば、これからも作品を書き続ける道は広がっていくはずだ。
 もちろん一口に名探偵といっても生み出すのは簡単ではない。
 これはルコックの模倣ではないか、これはホームズの亜流であると、読者にそっぽを向かれては元も子もない。自分なりの、そして日本らしい名探偵を、熟考のうえ生み出さなければならないのだ。
 実在の人物をモデルにするのは一つの手である。太郎はそれとなく広告部の連中を見回す。いつも額に汗を浮かべている豚のような部長は論外だ。あんな愚鈍そうな名探偵などいない。副部長の須原すはらも除外だ。あんな禿で出っ歯では犯人も警察も、推理を聞く前に噴き出してしまう。あいつもダメ、こいつもダメ…と心の中で繰り返しているうちに午前はすぎてしまった。
 隆子の作った弁当を食べ、午後の時間が始まるともう眠くなった。
 妄想にふけりながらもしっかり手は動かしていたから、仕事はほとんど終わっている。歩合制なので明日以降の仕事を前倒しすればその分月給は上がるが、そんなにガツガツしてもしょうがない。それよりはもっと妄想の中に浸っていたい。理想の名探偵とは…と、うつらうつらしながら時間を過ごしていると、
「平井くん! 平井くん!」
 廊下のほうから名を呼ばれてびくりとした。見れば、なすびに鳥打帽をかぶせたような男が手招きをしている。社会部の星野ほしの副部長だった。「新青年」の愛読者であり、ひょんなことから太郎の作品が掲載されたことを知って、何かと目をかけてくれる。自身も春日野かすがのみどりという筆名で作品を発表しているそうだが、太郎はまだ目を通せていない。
「一階の応接室に、お客さんが来ているよ」
「私に?」
 怪訝けげんそうにこちらを見てくる部長の目を気にしながら太郎は訊ねる。星野は右手につまんでいる名刺に目を落とす。
「外務省の人だそうだ」
「外務省に知り合いなどいませんが」
「杉原…なんと読むんだ? センポ、かな」
 太郎は弾け飛ぶように椅子から立ち上がった。
「センポくんが来てるんですか、下に?」
「センポで合ってるんだね、読みは」
「本当は『ちうね』です。だが読みにくいから…そんなことはどうでもいいんですよ」
 星野とともに一階に下り、応接室のドアを開けると、そこにはまさに、杉原千畝が待っていた。
「センポくん!」
「平井さん、本当に会えた」
 破顔一笑、握手を求めてくる。五年の間にその顔はりりしくなったようだ。その手を握り返し、太郎は訊いた。
「どうして日本にいるんだ?」
「この二月、正式に外務省書記生に採用されました。外務省で研修を受けるため、十か月だけ帰国しているのです」
「そうだったか。正式に採用というのはつまり、外交官になれたということか?」
「ようやく駆け出しといったところです」
「おめでとう」
 定職に就くことがままならない自分にとって、他人が職に就けたことがこんなに嬉しいなんてと、太郎はおかしくなった。
「大阪にはしばらくいるのか?」
「二日の休みを取っていますので、明日の夕刻にはこちらを発たなければなりません」
「それなら今夜は大丈夫ということだな。うちに来い」
「いいのですか?」
「いいに決まっているだろう。そうと決まれば今日は早引けだ。星野さん、広告部に平井は早退すると言っといてくれますか」
「はあ?」
 二人の再会をほほえましく見ていた星野はきょとんとし、ややあっていかんいかんと手を振った。
「君の勤務態度の悪さは社内で噂の種だぞ。これ以上変なことをするとくびになるぜ」
「星野さん、私が今まで何度、馘になってきたと思うんです? もう今さら、馘なんかに怯みませんよ」
「なっ…」