猫河原家の人びと

猫河原家の人びと

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 無言の千畝に警戒の色を見て取ったのだろう、犬沢はさらに表情を緩める。
「私は満州人社会に独自の情報網を持っています。彼らの中には共に排日運動に身を投じているふりをしつつ、ちょう学良がくりょうの動向を逐一報告してくる者が大勢おります。総領事館、ひいては外務省にとって有用な情報もあるかと思われます」
 悪い話ではなかった。少し前から張学良という中国人が日本人勢力を目の敵にして暴れ回り、日本人の安全を脅かしつつある。その配下は十万人いるとも言われ、ほとんど軍隊である。外務省としても張学良の動きは逐一チェックせねばならないが、当然のごとく中国人たちは警戒をし、なかなか情報源を得られずにいる。
 語学に自信のある千畝だが、ロシア語や英語、ドイツ語、フランス語に比べ、アジアの言語である中国語には苦手意識があった。それが災いしてか、なかなかうまく情報網を構築できずにいる。
「外務省も陸軍省も同じ内閣が動かしている。あなたも私も、突き詰めれば同じ親分を戴いている仲ではないですか。日本のために協力しましょう」
 裏はあるかもしれないが、とにかく要求を明瞭にしてくれている。人を見た目や所属で判断すべきではない。関東軍だってすべてが粗暴で傲慢というわけではないだろう。
「この店の客に、ソビエト共産党員がいるらしいんです。今夜来るかもしれない」
 杉原の言葉に、犬沢は目を見張った。
「そんな重要な情報を、初対面の私に…」
「共に待ってみますか。ただ私は、貿易会社の池田と名乗っていますので、お含みおきを」
 その日以来、千畝はこの犬沢という軍人とよく会うようになった。《ディリフィーン》だけではなく、いくつかのロシア人キャバレーをはしごすることもあった。犬沢からの情報は、張学良率いる漢人の動きに関しては特に正確で、暴動の計画の情報を前もって教えてくれたために、その日、出張の予定が入っていた同僚を止め、危険から守ることも二、三度あった。
 対する千畝もソ連の情報を流したが、とても犬沢の情報と釣り合わないような些末なもので、いつも引け目を感じていた。「今はソ連は国内の鉱工業に力を入れているでしょうから、満州で変な動きをすることはないでしょう」と、犬沢は千畝の言い訳を先取りするように微笑むのだった。
 知り合って二か月ほどが経ったある日、犬沢は満州人の街へ千畝を連れていった。留学生時代から数えてもう十年以上ハルビンにいる千畝だが、あまり足を踏み入れたことのない地域である。看板に漢字の多い道を行き、店の入り口をくぐると、満州の民族衣装に身を包んだ女給が二人を二階へ通した。
 四畳半もない狭い個室に四人掛けのテーブルがあり、軍服を着た華奢な若い男が一人、立って待っていた。
「杉原さんだ」
 犬沢が言うと、
「初めまして」
 彼は頭を下げた。その声を聞いて千畝は、おや、と思う。
「失礼ですが…女性ですか?」
「はい。川島かわしま芳子よしこと申します」
 聞き覚えがあった。川島と名乗っているが、それは日本人の養子になっているからで、実はしんの王族・愛新覚羅あいしんかくら家の血を引いている。女性ながらに男性の服装を好み、社交界で話題になっている―と、 新聞に紹介されていたのを見たことがある。
「色々あって、今は関東軍に協力してもらっています」犬沢が間を取り持つ。「杉原さんにお渡ししている満州人の情報は、実は川島君からもたらされるものなので、一度お引き合わせしたいと思っていたのです」
「これはどうも。杉原千畝です。お見知りおきを」
 川島は少しよそよそしげにうなずいた。
 運ばれてくる料理を食べながらしばらく会話をしているうち、彼女が天性の間諜であることを、千畝はすぐに悟った。まず、男装をしている女性という時点で一気に興味を惹かれる。男っぽい口調を使いながら、端正な顔立ちや時折見せる笑みなどは女性そのもので、つい話者は油断してしまうのだ。
「総領事館に食堂はあるんですか」「社員旅行のようなことはするんですか」「若い方が多いのでしょうか」
 など、他愛もない会話の中から、組織の規模や人間関係などをすべて抜き出されるような気さえした。
「杉原さんは早稲田の出身だそうですね」
 食事がしばらく進んできたころ合いで、犬沢が言った。
「ええ、まあ」
「早稲田は愛校精神の強い方が多いでしょう、各方面でご活躍のご学友も多いのでは?」
「残念ながら私は一年と少しで中退したので、友人らしい友人はいないのです」