真珠湾攻撃を間近に控えた太平洋で、出撃する戦闘機の整備をしながら、
「日米交渉が進んでいるから、攻撃は中止になるはずだ。明日にでも帰港の命令が出るだろう」
 という艦内の噂話を、彼は攻撃当日まで信じ続けていた。そうなってほしいと祈り続けていた。
 というのも、当時のハワイには、後藤さんの幼少時の親友が住んでいたからだ。戦前の日本は今からは想像もできないほど海外への移民が多く、ハワイやブラジルへ農場労働者として渡航していたらしい。
 後藤さんの親友も家族とともに海を渡り、その後会うことはなかったが、開戦の直前まで手紙のやりとりを続けていたという。どこの学校に行った、仕事が決まった、結婚して子供ができた、といった、今だったら Facebook でやりそうなことを、地道に紙とペンで綴り続けた。
 戦争が始まると、米国在住の日系人は、強制収容所に送られた。
 それ以後、手紙も途絶え、親友の消息は知れない。
 おそらく戦争を始めた自分たちを恨んでいただろう。後藤さんはもう一度彼に会いたい、ハワイに銃を向けたことを謝りたい、という思いを抱えながら、海外渡航の自由化を待たずして自動車事故で没した。その未練が幽霊となって、死後60年が過ぎた今もこの町に残っている。
 …といった話を、俺は事前にハルさんから説明されていた。
 だが、いくら目をこらしても「後藤さん」の姿は見えない。ハルさんが真摯な目で話している先には、黒ずんでヒビ割れの入ったブロック塀があるだけだ。そこに何かがいる、という気配すらまったく感じない。
 ハルさんの目線から察するに、幽霊は彼女よりずいぶん背が高い。174センチの俺と同じくらいだ。明治生まれの水準では、かなり大柄な部類だろう。
「信号旗のようなものか? って聞いてるわ」
 と、ハルさんが俺のほうを見て言った。
「あー、そうですね、大体そういうものです」
 と俺は答えた。信号旗の詳しい仕組みは知らないが、QRコードを見せられて信号旗を思いつく発想はいかにも海軍関係者らしい。ハルさん自身からその言葉が出てきたと考えるのは、少々の違和感はある。
「そういうことよ。わかった?」
 と、ハルさんがブロック塀を見上げて言った。しばらくの沈黙。
「え、燃料? 大丈夫、今の飛行機はとっても大きいのよ。お客さんを100人くらい乗せて、ハワイまでぴょーんと飛ぶんだって」
 本当にそこに誰かがいるように、身振り手振りを交えて話す。まるでパントマイムだ。