ここは夜の水のほとり

ここは夜の水のほとり

  • ネット書店で購入する

 テレビでは感染者数と死者数が連日報道されている。第2波とか、再び緊急事態宣言が出るんじゃないかとか、コロナの話題には事欠かない。日本国内での累計感染者数が8万人を超えたとニュースキャスターが読みあげた。数字は数字のまま、その中身をブラックボックス化して、現実味を奪っていく。夏生はテレビの画面を見つめたまま、つながらない高遠先生に電話をかけた。それは毎日の習慣のようになっていた。
 10月に入った。季節はずいぶんと秋めいて、長袖のシャツ一枚では肌寒い日と半袖でも汗ばむ陽気の日とが繰り返された。初週、ひとつ講義が休講になって、開放されているゼミ室で時間を潰していたら柚愛と沙也加がやってきた。ふたりおそろいのラバーストラップをつけている。透明な強化ガラスのスマホケースとスマホの間に、プリクラみたいな写真がはさまれている。なにそれ、と聞いてみると、ふたりは目を見合わせて「チェキ」と声をそろえて笑った。チェキの中でメンズ地下アイドルとハグする柚愛は、しあわせそうだった。
 坂田教授が教えてくれた住所の場所に行ったのは、小雨の降る冷えこんだ朝だった。教授はジュンさんが言ったように5回くらいメールを送りZoomでも待ち伏せしていたら、根負けして住所を教えてくれたのだ。教えられた住所は大学から電車で30分ほど行ったところにあった。
 教授のメールアドレスやZoomのIDを横流ししてくれたジュンさんに、先生の住所に行くのにつきあってほしいとLINEすると、ジュンさんは「夏生ちゃんはぼくをいいように使いすぎだと思う」と拗ねた調子で返信してきた。「ジュンさんしか頼れる人いないんです」とだまくらかして呼び出しても、まだむっつりとした顔をしていた。
「ゆっきーちゃんといけばいいじゃん」
「柚愛ね。もう興味ないっぽい。女心は秋の空ですよ」
「夏生ちゃんも新しい恋しようよ、ぼくとか…」
「恋なのかなあ」笑って、息を吸う。空気が乾いていた。冬はまだ遠いのに、気配だけがちらついている。「会いたい、って、恋だけじゃないんじゃないかなあ」
 住所を入力したGoogleマップの通りに進んでいく。大通りから細い路地を抜け、民家と民家の間を通り、まだしばらく行くと、舗装された道が途切れ獣道になった。住宅街からさほど離れていないというのに、周囲を薮が囲む細道がつづいている。坂道というより山の中を進んでいるようだ。一歩踏み出すごとに足の皮膚を葉先がくすぐってくる。坂のどん詰まりに、古びたアパートがあった。
 インターホンもついていない、廃墟のような建物だった。壁もドアもくすんだ灰色で、トタン屋根の端は欠けていた。2階へつづく階段は赤錆だらけでいまにも崩れそうだ。「ほんとにここ?」とジュンさんが自分のスマホでも検索する。ほんとにここらしい。
 夏生は慎重に一段ずつ階段をのぼり、コンクリの廊下を進んだ。廊下につけられた手すりにもいまにも崩れ落ちんばかりに赤い錆が浮いていた。扉の前に立つ。後ろをついてきていたジュンさんが「ほんとにここ?」ともう一度聞いた。外廊下の電灯は切れかけていて、ときたま瞬いては、また消えた。青い雑草が廊下のすみの壁の破れからつきでている。
 何度も深呼吸をして、部屋番号を何度もたしかめてから、ドアを握り拳で叩く。錆びた金属扉が鈍い音を立てた。いくら待っても、人はでてこなかった。
「高遠先生」
 ドアポストを外側から押し開け、声を送りこむ。やはり反応はない。「夏生ちゃん」とジュンさんが制止してくるのを無視して、ドアポストの隙間から中をうかがったが、光ひとつ見えなかった。
 ただ、ポストの中には大きな封筒が入っていた。迷って一度ポストを閉め、もう一度開ける。封筒の端を指先で探って掴んだ。引き上げる。一度中に押しこまれたポストのひだが邪魔をして、なかなか取りだせない。指先の感覚がなくなったころ、ようやく引きだせた。
 封筒にはこの場所の(つまり高遠先生が一定期間住んでいた場所の?)住所、裏面には、東北の県の住所が書かれていた。夏生の出身地でもある県だ。差出人の名前は、高遠総二。親か、兄弟だろうか。住所欄の横に電話番号らしき数字が書かれていた。
 アパートはドアだけでなく外壁も、触れるとハゲた塗装で指先が白くなる壁だった。夏生はもういいか、とその壁に背中をつけて、座りこんだ。背中からコンクリートの冷たさが沁みるように伝わってくる。粗い格子状の鉄柵を隔てて、山の風景が見えた。ふうと息をついて、スマホに10桁の数字を打ちこむ。
 コール音は長かった。いつかの夜、酔っていた夜に、先生に電話をかけた日を思い出した。ぷつ、と音が途切れる。「なんだす」と聞き慣れたイントネーションが耳に飛びこんでくる。夏生は玄関扉にもたれかかっているジュンさんを見た。怪訝そうな顔をしている。ジュンさんと夏生は横並びに座っていた。
 男は高遠先生の弟だと名乗った。夏生が高遠先生の教え子であること、彼が休職したこと、彼の行方を追っていることを話すと、その人は生返事をして、ひとつ、大きなため息をついた。
「なんで兄のことそんげ調べていらっしゃるのかは知りませんがね、あの人はそんな、大層な人間でねえとおれは思うよ。いや、あの人のことをそんなに知ってるわけじゃないけど、なんてったってもう10年会うてねえし」
「あの…」
「はい?」
「地元は、どちらですか」
 夏生がそのイントネーションに郷愁を感じ聞くと、先生の弟はさきほどの住所と同じ、東北の県の名前を口にした。
「同じです」
「はっ?」
「わたしも、出身…東北で、今年から、東京にでてきて」
「ああ、そうなんか。そりゃあ、ずいぶん大変でしたなあ」
 不信感を丸出しにしていた彼の口調が、やわらかくなる。同郷だと知ったからか、夏生に同情してくれたからか。
「大学入ったとたんにコロナってことでしょう。大変だ。ん、てことは兄には会ったことはねえんか。いや、さすがにあるのかな。最近の大学生のことなんてまあ知らないものでね、けど、あれなんでしょう、いまの時代はもうぜんぶオンラインなんでしょう。うちの会社もね、もう4月からずーっとテレワークですよ」
…お会いしたことは、ないです」
「へえ。それなのにわざわざ前の大学の教授も訪ねて実家の電話番号教えてもろうたの」彼にはさすがに封筒をポストから取り出して見たとは言えず、そう説明していた。「なに、兄貴ってそんげイイ先生なの? あんな落第生が?」
「落第生?」
「や、おれよりはもちろんよっぽど頭いいよ。そうじゃなくて、親父が言ってたことな。落第生。現役でW大行って院まで進んだのに、ばかな言いようだよなあ」
 電話から漏れ聞こえる『W大』という単語に反応したのか、ジュンさんが耳をそば立ててくる。ジュンさんからは雨の日の野良犬みたいなにおいがした。先生の弟は乾いた笑いをはさんで、つづける。
「なんてーのかなあ、親父にとっては学校の成績なんてどうでもよかったんだな。兄貴は、作家として落第生だったわけで。ああ、うちの親父は作家なんですよ。有名な。聞いたことあるかな」
 彼はひとりの作家の名前をあげた。現代日本文学に疎い夏生でも知っている作家だった。高遠先生の口から聞いたことがなかったし、Wikipediaにも書かれていなかった。先生の弟がつづける。
「もとは文学研究者だったんだけど、いつのまにか作家が本業になって。おれにも兄貴にも、作家になってほしかったのかなあ。直接言われたことはないけど、子どもの才能を冷静に見てるようなとこがあった。論文で賞とっても見向きもしないくせに、序論の詩情的な一文をとつぜん褒めたりする。そういう親父がやんなって、博士やめたとこもあったんじゃねえかなあ」
「やめた?」
「やめたっつーか、満期退学」
 夏生は半年前に読んだWikipediaのページを思い出そうとしていた。それと同時に、彼に論文の断片を見てもらったとき『詩情的な才能がある』と褒められたことが頭に浮かんだ。彼はほんとうは、その言葉を与えるんじゃなく、受け取りたかったのかもしれない。
「一時期小説の専門学校かなんかいってたんじゃねかったかなあ。芽は出なかったらしいけど。兄貴も学生に慕われてんだらよかったよ。親父へのコンプレックスでいまにも死にそうなあの人しか知らないからさ。10年前のあの人」
 もう何度も読んだ彼のWikipediaには、たしか博士課程修了と書かれていたはずだ。専門学校に通っていたことなんて、もちろん書かれていない。Wikipediaはだれでも編集できるWebサイトだ。だれかが間違えて記載したのかもしれない。そちらのほうが確率は高いだろう。それでも、夏生にはが故意にやったように思えてならなかった。
「しばらく連絡が取れなくなってるんです」と夏生は改めて言った。「いや、休職願は出されているそうなんですけど、本当にだれも連絡できなくて」
「それは心配ですね」
 弟がまったく心配じゃなさそうな声で言う。もうずいぶん会っていないと言っていたし、あまり仲良くない兄弟だったのかもしれない。夏生はずっと胸にわだかまっている言葉をぶつけた。
「失踪したんじゃないかって」
「失踪?」
「不安にならないんですか。こんな時世で…まさかってこともあるかもしれないのに」
「まさかってなに」
「だから、それは」
 言葉に詰まる千秋に、男性は「ああ」と笑った。
「兄貴が、死んでるんじゃないかとか思ってんのか」
(つづく)