猿婿【4】

【試し読み】日本ファンタジーノベル大賞2021大賞受賞作!『鯉姫婚姻譚』

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イラスト/minoru
イラスト/minoru

「何でだ、何で又吉の爺様もおすみも山を下りるのをとめるんだ、儂にはもうこれしかないというのに」
「おい、落ち着きなよ。どうしたんだ」
 おすみは猿の腕をつかむと、無理やり桜の樹の下に座らせた。猿は尚も息を荒くしている。
「悪かったな、呼んでくれっていうのきかないで。でもなあ、何でなんだか。お前さんに似合わない気がするんだよ、又吉っていうの。他の名前を考えねえか」
 おすみがそう言うと、猿は体を丸めて顔を隠してしまった。
 おすみは途方に暮れて、樹上を見上げた。小鳥が一羽、軽快に飛び回っては枝を揺らしている。
 小鳥の鳴き声と川の流れる音が耳に流れ込んで、心を慰めてくれているようだった。
「墓にするにはこれ以上ねえな。良い所を選んだよ、又吉とかいう爺様は」
 おすみが何とはなしに呟くと、猿がぼそりと答える。
「又吉の、爺様は。小猿だった儂に随分優しくしてくれた。群れを追い出されて行く当てもなくてな。爺様がいなければ、儂はとっくにのたれ死んでいた」
「へえ。こんなに図体の大きなお前さんにも小猿だった頃があるんだな」
「だから、爺様が病でいよいよ死ぬとなった時は悲しかった。死んだらなんでも形見にやると言われても嬉しくなかった。爺様は病で酷く長く苦しんだ。これ以上苦しみたくないから殺してくれとまで」
「うん…」
 急に顔を上げて語り始めた猿におすみは戸惑っていた。身の上話の類たぐいを聞くのは好きじゃない。暗い話となればなおさらだ。
 だがきっと猿にとって大事な話なのだろうから、仕方なく相槌を打つ。
「とにかく元気づけようと思って、爺様に教わった言葉で話し続けた。それで、言ったんだ。山の上にいるから病も治らんのだと、連れて行ってやるから一緒に村に棲もう、と。儂がしっかり看てやるから、村の医者の助けも借りればいいと。そしたら爺様は久しぶりに笑って」
「うん…何と?」
「猿が人の村に馴染むことなどできんよ、と」
 おすみもそう思うが、猿にとっては受け入れがたい言葉だったらしい。
「それで、お前さんは何て言い返したんだ」
 先を促すが、猿は答えない。
 おすみはその顔を覗き込んで、ゾッとした。猿は顔を歪ませている。その表情はひどく人間じみた憎悪に満ちていた。
「殺したか」
 閃ひらめいた直感をそのまま口に出してから、おすみは自分の言葉に驚いた。しかし猿の暗く淀んだ目が自分に向いたのを見て確信する。
「殺したんだな」
「爺様は長く苦しんで見てられない程だった」
「それが理由じゃねえだろう。猿は人と暮らせねえと言われたのが憎らしかったのか。爺様が死んで家が、着物が、名前が自分のものになれば人に成り変われるとでも思ったか」
「おすみ」
「触るな!」
 猿を突き飛ばして走り出す。頭の中が煮えたぎるようだった。
 猿に殺すという言葉など解らないと見縊みくびっていた自分に腹が立った。
 猿だって虫くらい殺すだろうし、仲間の猿を痛めつけて殺すことくらいのことはできる。人を殺すことだってできるだろう。
「おすみ! 止まれ!」